連載
ごめん。
第九話 うさぎが転んだ 加藤 元 Gen Kato

 とめどなく続く内野ゆかりのお喋り。早くひとりになりたい。ひとりで自転車に乗りたい。今日は橋を渡って県外へ出てみよう。夕食までに帰れるだろうか。帰れなくてもいい。遠くへ行きたい。ひとりで、うんと遠くへ。そう考えなかったといえば、嘘になる。
「里村くん、自転車の後ろに乗せてくれない?」
 ある日、内野ゆかりがそう言ったとき、永二郎は拒んだ。
「おれの自転車は、ひとりしか乗れないんだ」
 そのころは、兄のお下がりではなく、お年玉を貯めて買ったお気に入りの自転車に乗っていたのだ。乗らないときはぶ厚いカバーをかけて、休みになると油を差してぴかぴかに磨いた。家族の誰にも触らせなかった。内野ゆかりにも触れさせたくなかった。自分だけの時間に入って来られるのは、厭だった。
 そのことが、それほど内野ゆかりを不快にさせたとは思わなかった。だが、彼女にふられて一年あまり。中学校を卒業するとき、卒業アルバムの寄せ書きに「これからもずっと大好きな自転車で走っていてください。ひとりで」と毒のあるメッセージを書かれ、はじめて思い当たったのだった。
 おれは、自転車のせいで嫌われたのか。
 内野ゆかりのことが好きではなかったわけでは決してない。
 永二郎には、誰にも入って来られない、自転車との時間が必要だっただけなのだ。

 ――このまま、この道路を一度も曲がらないで進んでみたいな。どこまで行けるかな。
 ――とにかく行ってみようよ。

     *

「どんな女だ?」
 和風ハンバーグステーキセットをつつきながら、島田が身を乗り出した。
「どこで知り合った。職場?」
「あちちち」
 永二郎は熱々の味噌煮込みうどんをすすり込む。彼女、吉本佑理と知り合ったのは、職場と言えないことはない。彼女の勤め先は、永二郎の会社の得意先のひとつである学生服専門の洋品店だった。つまらない一日よ、さっさと終われ。念じながら日々の業務をこなしている合間に、吉本佑理の顔を見るのが、楽しみになった。こんな仕事、ぜんぜん好きじゃないです。辞めたいですねえ。誰にでも軽口は叩いたが、彼女と話すときはいちばんわくわくした気分になれた。
「おい、教えろよ。いつからつき合っているんだ?」
「春ごろかなあ」
 硬めのうどんをすすり上げる。
「そんな話、ぜんぜんしなかったな。この野郎」
 いかにも憎々しげに言うと、島田はつけ合わせのじゃがいもフライにフォークを突き立てた。



 
〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
Back number
第十三話 しゃぼん玉(最終回)
第十二話 ハッピーエンド
第十一話 十四と四十
第十話 小言幸兵衛
第九話 うさぎが転んだ
第八話 ごめんじゃすまない
第七話 ナニサマ
第六話 電話家族
第五話 かすがい
第四話 悪い妻で、ごめんなさい
第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん