連載
ごめん。
第九話 うさぎが転んだ 加藤 元 Gen Kato

「わざわざ報告するほどのことでもないからさ」
「なにを言っている」
 島田が噛(か)みつくように言った。
「これまで女っ気(け)皆無だった、暗く寂しいおまえの人生にとっては一大事だろ」
 ずいぶんな言われようだが、否定はできない。永二郎は半煮えの卵をれんげですくい上げ、口に運ぶ。
「いくつだ。若いのか」
「おれより二歳齢上」
「齢上か」
 心なしか、島田はほっとしたようである。
「よかったな。うん、おまえには齢上が向いているのかもな。しっかりリードしてもらえよ」
 言いたいことはわかるが、彼女の場合、そういう風にはならないんだよなあ。
 が、ここで詳しく説明する気にはなれないので、永二郎はうどんの汁を吸い上げる。
「若くないのか。よかった、よかった」
 島田は自分自身のためにも安心しているようだ。永二郎は少し吹き出しそうになった。これで相手が二十歳の女子大生とかだったら、悲しみで泣き崩れたかもしれない。
「よく会うの?」
 永二郎は頷いた。仕事でも、週に一度は顔を合わせるのだ。
「会うのは週末か」
「だいたいね」
「おまえ、金曜日の夜は、相変わらず遠出しているの?」
 永二郎は曖昧に笑って、また頷いてみせる。金曜日に限らない。休日の前夜、日付けが変わる少し前の時刻、永二郎はたいがい自動車を走らせる。高速道路はほぼ使わない。京浜道路を行くこともあるし、川越街道を進むこともあるし、日光街道を行くこともある。どの道を取り、どこの県を目指しても、やがて街の明かりは遠ざかり、街灯もまばらになって来る。東京都内を出るまでは多かった交通量も減る。夜が白むまで走ったのち、パーキングエリアでひと眠りして、道の駅あたりで食事をとって、帰って来る。それだけの「遠出」が、永二郎の最高の楽しみなのだ。そして、その楽しみは、常に永二郎ひとりのものだった。
「その彼女、さ」
 意味ありげに、島田が訊いた。
「もう、自動車には乗せた?」
 永二郎はかまぼこを食いちぎる。
「まだだ」
 吉本佑理とつき合いはじめてからも、ひとりきりの遠出の習慣は変わらなかった。
「大丈夫なのか、おまえ」
 島田が心配げに眉を寄せた。
「高校のころはバイク愛、今は自動車愛だろう。おまえ、かなり異常なところがあるからな」
「しかし、彼女は、おれのちょっと変わったところが気に入っていると言っている」
 永二郎が口を尖(とが)らせると、島田は鼻先で笑った。
「ちょっとじゃない。俺は、かなり異常だと言ったんだ」



 
〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
Back number
第十三話 しゃぼん玉(最終回)
第十二話 ハッピーエンド
第十一話 十四と四十
第十話 小言幸兵衛
第九話 うさぎが転んだ
第八話 ごめんじゃすまない
第七話 ナニサマ
第六話 電話家族
第五話 かすがい
第四話 悪い妻で、ごめんなさい
第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん