連載
ごめん。
第九話 うさぎが転んだ 加藤 元 Gen Kato

「今日も走るか」
 ぺちぺちとタンクを叩いて、そう囁きたくなる。いや、実際に囁く。そう、自転車のときと同じように。
「永二郎」
 島田が薄気味悪げに言う。
「おまえ、ちょっと危ない世界に入っていないか」
「そうか?」
「バイクが恋人だと思っているみたいに見える」
 永二郎は黙っていた。

 ――そうか。
 ――そうだよ。

     *

「高校のころのおまえは、バイクひと筋だったな」
 島田が遠い眼をした。そうだった。そして島田は、あのころからいつでも彼女が欲しい彼女が欲しいとぼやいていたのだ。大学受験の年ですら、初詣で神社の絵馬に彼女ができますようにと書いていて、永二郎にある種の感動を与えたものだった。
「事故らなきゃ、まだバイクに乗っていたかな、おまえ」
 永二郎の胸がちくりと痛む。
 高校三年の春。桜がすっかり散って、青い葉が茂る季節の日曜日。いつものようにバイクを走らせていた永二郎は、がつん、と来た衝撃とともに本当に空を飛んだ。自動車に追突されたのである。
 道路に全身を叩きつけられたとき、不思議と痛みは感じなかった。他人ごとのように、呟いた。
 ――死ぬのかな、おれ。
 ――死ぬのかも。
 さいわい、永二郎は死ななかった。
 しかし、搬送された救急病院では、ひどい目に遭った。手術台の上で、永二郎は医者のこんな呟(つぶや)きを耳にしたのである。
 あっ、しまった、やっちゃった。
 その瞬間、激しい痛みとともに、意識が遠のいた。
「どのくらい入院していたっけ」
「一ヵ月半」
 複雑骨折した足首の大きな傷跡は、いまだに痛む。経過は順調だったが、若いからだね。よかった、よかったと回診に来た医者がにこにこ言うたび、永二郎は疑わしい眼を向けずにはいられなかった。あんた、おれになにをやっちゃったんだよ。



 
〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
Back number
第十三話 しゃぼん玉(最終回)
第十二話 ハッピーエンド
第十一話 十四と四十
第十話 小言幸兵衛
第九話 うさぎが転んだ
第八話 ごめんじゃすまない
第七話 ナニサマ
第六話 電話家族
第五話 かすがい
第四話 悪い妻で、ごめんなさい
第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん