連載
ごめん。
第十一話 十四と四十 加藤 元 Gen Kato

     一

 闇の奥から、甲高い叫び声が聞こえた、気がした。

 こんな真夜中に、赤ん坊だろうか。それとも、事件でも起きたのか。
 まぶたを閉じたまま、木崎慎次(きざきしんじ)は考える。わああ、わああああ。ずいぶんな大声だ。いったいどこから聞こえて来る? マンションの階下か、それとも道路か? そういえばクリーニング屋の前、大通りから小道に曲がる角のところに、防犯の立て看板があったな。ひったくり多発、気をつけてというやつ。もしかしたら、痴漢に注意、だったかもしれない。とにかく、この近所で物騒な事件が発生したことがあるということだ。
 起きた方がいいだろうか。眼を開けて、ベッドから出て、電灯をつけて、窓を開けて、外を見よう。そして、ことと次第によっては、警察に連絡をせねばならぬ。
 だが、まぶたは重く、顔に触れる空気は冷たい。暦の上では春が来ているけれど、明け方や夜はまだまだ真冬の寒さだ。躰(からだ)も動かない。蒲団(ふとん)の中は暖かい。自分だけのぬくもりでも、じゅうぶんに暖かい。動けない。
 泣き声は、だんだん小さくなっている。が、尾を引くように、いつまでも続いている。やはり赤ん坊だろうか。強盗、ひったくり、痴漢の類ではなさそうだ。よかった。事件ではないのなら、起きなくて済む。
 わああ、わあああ。
 まだ泣いている。ずうっと前、娘の真衣(まい)が赤ん坊のころ、こんな風に泣いていたのを、思い出す。ママはお乳をくれないのだろうか。いや、腹が減っているわけじゃないのかもしれないな。赤ん坊なりに、なにかが不満で、なにかが悲しいのかもしれない。
 わああああ。わああ。
 泣いている。泣くがいい。今だけだからな。いずれおまえは泣けなくなる。いつまでも赤ん坊や子供ではいられない。
 そうやって声を上げられるのは、今のうちだけだ。

     *

 日曜日、午前十時。私鉄沿線の線路沿い、住宅街の一角にある小さな寺。
 慎次は、住職の読経を聞いていた。
 春の彼岸の入りまで、あと一週間。門のすぐ脇では、白梅が満開で、白い木蓮もちらほら蕾を開きかけていた。かなり早咲きね、と姉が呟いた。母親が亡くなって五ヵ月。姉夫婦と息子、そして慎次の四人きりの法事。
 慎次は下を向き、睡魔と戦っている。眠い。ゆうべはよく眠れていないのだ。泣き声は明け方まで続いていたようだ。眼は開けなかったし、半ばまどろみはしていたが、深い眠りには落ちて行けなかった。ただでさえ睡眠不足なのに、坊さんのお経なんて、さあ舟を漕(こ)いでくれと言わんばかりの状況ではないか。今日は朝からよく晴れていた。日なたはぽかぽか陽気だったが、本堂は底冷えがする。背中をひんやりした空気が這(は)い上がる。しかし敷かれているのはホットカーペットだから大丈夫ですよ。ゆっくりおやすみなさい。そうですか。うん、このごろの寺はサービスがいい。



 
〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
Back number
第十一話 十四と四十
第十話 小言幸兵衛
第九話 うさぎが転んだ
第八話 ごめんじゃすまない
第七話 ナニサマ
第六話 電話家族
第五話 かすがい
第四話 悪い妻で、ごめんなさい
第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん