よみもの・連載

本日はどうされました?

第一章 植松佑喜子(うえまつゆきこ)の話

加藤 元Gen Kato

 私は、店長に事情を話して、仕事を早退させてもらうことにしました。
「それは大変ですね。はやく行ってあげてください」
 私より十歳ほど若い、四十歳を迎えたばかりの店長は、笑えない駄洒落ばかり口にしている陽気な男性なのですが、さすがにこのときは真面目な顔つきになっていました。
「で、どこの病院へ運ばれたのですか」
「E病院です」
「奇遇ですね。僕の祖父も、あそこに入院していたんです」
 と言われても、私としては、そうですかと応じるよりほかにありませんでした。
「僕が大学生のころでした。肺がんでしてね。で、けっきょくあの病院で」
 店長は、言いかけた言葉を飲み込みました。死んだ、と言いかけたのでしょう。こんな際、決して口に出してはいけない台詞です。
「それじゃ、すみません。お先に失礼します」
 私が頭を下げると、店長は神妙な面持ちで頷(うなず)きました。
「お大事に」
 いや、倒れたのは私じゃないんだけど。
 けれど、店長としては、かけるべき言葉はほかにないですものね。
 店を出ると、すぐに大通りです。歩き出しながら、タクシーを探しました。E病院は、いつも通勤で使っている路線上にあって、駅からも遠くありません。けれど、気分としては、タクシーで向かいたかったのです。でも、タクシーは一台も来ません。自動車が絶えることのない道路なのに、こんなときに限ってタクシーの姿だけは見当たらない。何なのよ。いったい何の呪いなの。じりじりしながら地下鉄の駅に向かって足を進めました。けっきょく、タクシーを捕まえることはできないまま、私は地下鉄駅の階段を下りていくしかなかったのです。

 母は、内科の病棟にいました。
 熱中症でした。三十五度を超える暑さの日盛りに、スーパーマーケットに買い物に出て、店先で動けなくなってしまったのだそうです。
「さいわい、生命に関わるほどではありませんでしたが、かなり強い脱水症状が出ていました」
 三十代くらいの若い男のお医者さんは、淡々とした口調で説明してくれました。
「症状は改善したので、本来ならば即日退院できるところなのですが、血液検査の結果、腎臓(じんぞう)の機能によろしくない兆候がみられました。手足に浮腫(ふしゅ)も出ている。しばらくのあいだ、入院が必要です」
「入院って、どのくらいの期間になるでしょう」
「そうですね、一週間ほどは様子を見た方がいいと思います」
 話を聞きながら、ひとまずはほっと胸をなで下ろしました。そう、生命は無事だったのです。
 むらむらと怒りがわいて来たのは、病室で母と顔を合わせたあとでした。
「まいったよ」
 ベッドの上で、母は仏頂面をしていました。
「救急車なんかに乗せられちゃった」
 いかにも不本意と言わんばかり。が、ほんのちょっと頬がゆるんでいるのを、私は見逃がしませんでした。
 嬉しいのかい。
「ひと騒がせね。どうしてこの暑さのなか、ふらふらと外を出歩いたりするの」
 災害級、生命の危険があるほどの猛暑。猛暑を通り越した酷暑。毎日、病院へ運ばれる人間が何十人も出ている。TVで報道されているじゃありませんか。母がそれを観ていないはずがないんです。茶の間ではいつだってTVがつけっぱなしなんですからね。

プロフィール

加藤元(かとう・げん) 1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『ひかげ旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。

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