よみもの・連載

本日はどうされました?

第一章 植松佑喜子(うえまつゆきこ)の話

加藤 元Gen Kato

「このごろの夏は昔と違うの。気をつけてよ」
「まさか自分が倒れちゃうなんて思わないもの」
 母は口を尖(とが)らせました。
「おまえだって、そうだろう?」
 またこの顔だ。私はいくぶんむっとしました。私の言うことを、母は素直に聞き入れたことがありません。必ず言い返してくるんです。
「私は不必要に外を出歩いたりしません。冷房の効いたお店の中にいます」
 レジのすぐ横にある野菜売り場から流れて来る強烈な冷気のせいで、むしろ寒いくらいです。
「おまえだって知っているだろう。あたしは夏には強いんだ」
 母が言いつのります。
「冷房だってふだんはぜんぜんつけないし、そんなに暑いとも思わなかった」
 自慢するみたいな口ぶりです。エアコンをつけなさい。何度も注意したのですが、母はぜったいに耳を貸さないのです。
「あのね、年寄りはね、暑さや寒さの感覚が鈍くなっているの。だから危険なの」
 自分だって若くはないのに、私はあえて意地悪い言葉を選びました。
「冷房は嫌い。躰(からだ)が冷えきっちゃう」
 私は奥歯をぎりりと噛(か)みしめました。誰も好きとか嫌いの話はしていない。そんなことを言っているから、この始末なんじゃないか。
「あたしは昔から暑さには強い性質なのに」
 ふてくされて繰り返すばかりです。
「昔とは、気候も変わったの」
「あたしは暑くないんだってば」
 だーかーらー。食いしばった歯のあいだから軋(きし)むような声が漏れそうになりました。同じことを何度言えばわかるのか。おかあさん、あなたはもう昔とは違うの。老いてしまったの。眼の前の娘を見なさいよ。すっかりおばさんになってしまっているでしょうが。ってことは、あなたはおばあさんなの。
「今は今。変わってしまったんだから、しょうがないじゃない」
 いけない、相手は病人なんだ。あまりとげとげしいものの言い方をしては駄目だ。
 自分でもよくわかっています。けど、母と話をしていると、どうしても苛立ってしまうのです。
 昔から、そうでした。
 ずっと昔、子供のときから、母と私はあまり気が合わなかったのです。
「あ」
 不意に、母が心細げな声を出しました。
「慎一(しんいち)には連絡してくれた?」
 やっぱりね。そう来ると思った。
 私は溜息を押し殺して、答えました。
「さっき電話したら、出なかった。仕事中で手が離せないんでしょう」
 私と同じでね、と胆(はら)でつけ加えます。
「留守番電話にメッセージを入れておいた」
「そう」
 母は安堵(あんど)したように頬をゆるめました。
「お見舞いに来るよう、言った方がいい?」
「いいわよ。あの子は忙しいんだから、迷惑はかけられない」
 私になら迷惑をかけても構わないわけ? 私だって暇じゃないよ。

プロフィール

加藤元(かとう・げん) 1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『ひかげ旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。

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