よみもの・連載

本日はどうされました?

第一章 植松佑喜子(うえまつゆきこ)の話

加藤 元Gen Kato

 お医者さんにお願いして、一日もはやく退院できるようにする。
 口先だけの約束をして、どうにか落ち着かせたあとで、ナースステーションに立ち寄りました。母の妙な「妄想」について、看護師さんに相談しようと思ったのです。
「そういう風におっしゃる方はときどきおられますよ。柳沢さんばかりじゃありません」
 冷静に受け止めてくれたのは、先ほど挨拶を交わした、入院初日に会った、あの看護師さんでした。
「苦しい処置をしなければならないこともありますから、患者さんとしてはそう思っちゃうんでしょうね。無理もないです」
 淡々と言われると、申しわけない気持ちでいっぱいになります。
「うちの母、みなさんに対して変な態度を取っているんじゃありませんか」
「私には、そんなことはありません」
 看護師さんは、苦笑いしました。
「けれど、担当によっては、お食事を食べてくれないときはあるみたいですね。毒を盛られているとお疑いになるみたいです」
 私はがっくりしました。
「すみません」
「お気になさらず」
 看護師さんは静かに笑いました。
「これが仕事なんです。慣れています」
 私はふたたび深く頭を下げるしかありませんでした。

 夜になって、家で夫にその話をしました。
「おかあさん、認知症の気があるのかもしれないな」
 夫は眉をひそめながら言いました。
「ぼけて来ると、やたらと猜疑心(さいぎしん)が強くなるだろう。死んだ親父もそうだったじゃないか。自分が物忘れをしたことさえわからないものだから、とにかく周囲のせいにする。おふくろや義姉さんが苦労をしていた」
「そうかもね」
 鍵がない誰が隠したと怒鳴り、財布がないおまえが盗んだなとわめき、デイケアなんてあんな幼稚園児みたいなお遊戯に参加できるかと歯を剥(む)き、みなが俺を馬鹿にしやがると怒りに任せて壁を蹴って足首の骨を折ったりもした舅(しゅうと)。若いときも感情的なところはあったけれど、あんなにひどくはなかった。うちのおとうさんはすっかり人間が変わってしまったよと溜息をついていた姑(しゅうとめ)。今日の母の興奮したさまを思い出して、私の気分は暗くなりました。
 おかあさんも、ああなっちゃうのか。
「しかし、ちょっと気にはなるな」
 夫が首を傾げました。
「病院のことだよ。おかあさんだけじゃない。同じ病室のひとも、文句を言っていたんだろう?」
 ああ、と私は頷きました。梅田さんね。

プロフィール

加藤元(かとう・げん) 1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『ひかげ旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。

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