よみもの・連載

本日はどうされました?

第三章 菊村美知(きくむらみち)の話

加藤 元Gen Kato

     *

 もちろん、すぐにその疑惑を口にしたりはしませんでした。
 けれど、その後も、おかしな事件が続いたんです。しかも、次に被害に遭ったのは、私でした。
 あれは、二月のはじめごろだったかな。その日、私は昼勤でした。午前中の勤務を終えて、休憩室で食事を摂(と)りました。私、あのときは朝から調子が悪かったんですよね。ある患者さんの点滴が予定の時間どおりに終わらなかったり、ほかの患者さんの注射を別の患者さんのものと間違えかけたり。
「今日はどうしたの」
 なんて、萩野さんにもあきれられちゃいました。
「誰かさんが取り憑(つ)いちゃったんじゃないの?」
 気分は最悪。ミスが重なって立て込んだせいで、かなり遅めの昼食でした。午後二時過ぎ。何気なく窓から外を見たら、空がどんより曇って来ていたので、携帯電話をかけたんです。土曜日か日曜日だったので、うちの旦那は会社が休み。外に出かける予定だとも聞いていなかったから、おそらく家でごろごろしているに違いない。雨か雪になる前に、洗濯物を取り込んでおいてくれるよう伝えようと思ったんです。そうしたら、うちの旦那、電話に出るには出たんですが、どうも様子がおかしい。
「洗濯物? 間に合うかなあ」
 ぼそぼそ聞き取りにくい声で、はっきりしない返事をする。
「家にいないの?」
 すぐに察しがつきました。後ろがざわついていて、家の中にいる感じじゃないんです。
「今日はなにも用事がないって言っていなかった?」
「うん、まあ、ちょっと出ている」
 男のひとって、ああいうとき、どうして咄嗟(とっさ)に理由を作れないんでしょうね。私だったら、急に友だちから連絡があったから昼ごはんを食べに出た、くらいは言いますよ。うまい嘘を考えつかないなら、なぜ電話に出るのか。理解不能です。それとも、ああまで馬鹿正直なのはうちの旦那だけなんでしょうかね。よその男性はもっと言いわけがうまいのかな。
「買いものでもあるの?」
「うん」
「なにを買うの」
 いくぶん声が尖(とが)ったのは、行く先の見当がついたからです。
「まさか、競馬じゃないでしょうね」
 旦那は黙りました。当たり。場外馬券場だったんですよ。
「馬券はもう買わないって約束をしたはずでしょう?」
 旦那、博奕(ばくち)が好きなんですよ。そのことでは結婚する前から何度も揉(も)めていました。あの男はあの口で何度誓ったことか。パチンコも競馬も今後いっさいやらない。
「ついこのあいだ、今年の有馬記念が最後だとか言っていなかった?」
 旦那、沈黙。
 抑えろ、抑えろ、ここは休憩室だ。私は自分に言い聞かせました。今、藤井さんがペットボトルのお茶を手に入って来たじゃないか。あのひとにこんな会話を聞かれたくない。
「帰るよ」
 ようやく届いた旦那の声に、第十レースの投票時間を締め切ります、というアナウンスの声がかぶさります。

プロフィール

加藤元(かとう・げん) 1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『ひかげ旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。

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