よみもの・連載

本日はどうされました?

第三章 菊村美知(きくむらみち)の話

加藤 元Gen Kato

「そろそろ帰る」
「そろそろ?」
「すぐ帰る」
「そうしてちょうだい」
 叩きつけるように言うと、旦那の答えを待たずに通話を切りました。藤井さんが休憩室に来たからには、私は仕事に戻らなくてはいけない。隣りのテーブルでお茶を飲んでいる藤井さんに対しても、怒りがふつふつわいて来ました。ここへ来るのが早いんだよ。もう少しのんびり休ませてくれたっていいじゃないか。午前中、私が忙しくしていたのはあんただって知っているでしょう。そりゃ、悪いのはへまをした私自身だけどさ。それに、あんたはなにも助けちゃくれなかった。いつもどおり自分のことしか見ていなかったけどね。
 誰かさんが取り憑いちゃったんじゃないの?
 萩野さんの言う「誰かさん」は、もちろん藤井さんのことを指していたんです。いまいましい。それ以上、同じ部屋に二人だけでいるのは厭でした。私はテーブルの上に電話を置いて、患者さんと共用のトイレに行きました。
 戻ってきたら、電話がない。
「あれ?」
 その瞬間は、ひたすら疑問符でした。電話はどこに行った? トイレに持って入ったんだっけ? まずはそう考えて、トイレにも行ってみました。個室も洗面所も探したけれど、やはりない。
「どこへ置いたの、私?」
 誰かに隠されたとか、盗まれたなんて考えは、少しも脳裏に浮かびませんでした。蓮沼さんや萩野さんとは違って、現場はロッカールームではなかったですし、消えたのも電話です。旦那とのやりとりで頭もかっかしていたし、藤井さんにも腹を立てていた。こまかい動作をいちいち認識した上で行動していたわけではなかったんです。朝から失敗続きだったうえ、またやらかした。自分の不注意としか思えませんでした。
 不注意じゃない。悪意だったんだ。
 それに気づかされたのは、二時間ほど経ってからです。
「ねえ、あれ、菊ちゃんの電話じゃない?」
 萩野さんに言われて、トイレに向かったら、あったんです。
 つい二時間前に見まわしたはずのトイレの個室でした。便器の中に沈められた、私の携帯電話。
「患者さんから、トイレに電話が落ちていると言われて見に来たの。菊ちゃんの電話に似ているけど、まさかと思ったよ」
 萩野さんが溜息をつきました。
「なくしたって言っていたの、二時間も前だったでしょう。ずっとここにあったのかな。今日は面会のお客さんも多いし、もう少し前に見つかってもよさそうなものなのにね」
 誤って落ちたのではない。他人の手によって、便器に落とされた電話。排泄物のように扱われた、私の電話。
 私自身が踏みつけにされたような不快感がこみ上げました。そして、そんな私を見て、気持ちよさそうに笑っているやつがいるのは間違いないんです。
 いったい、誰が?

     *

 疑いは、このとき確信に変わりました。
 考えるまでもない。さっき休憩室にいたのはひとりだけじゃないか。
「誰かさん」だ。

プロフィール

加藤元(かとう・げん) 1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『ひかげ旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。

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