よみもの・連載

本日はどうされました?

第四章 稲本亜須香(いなもとあすか)の話

加藤 元Gen Kato

     *

 三月の終わり。
 あたしの一家は、父親の転勤にともなって、引っ越しをした。父親と母親と、二歳上の兄とあたしの四人家族。あたしが物心ついたときから住んでいたのは、S県の海辺の町だった。引っ越し先は東京都内の住宅地である。父親にとっては栄転だったらしい。
「新しいおうちは一軒家じゃなくマンション。今までよりも広いのよ」
 新居へと向かう自動車の中で、助手席にいる母親はにこにこ楽しそうだった。けど、あたしはあまり嬉(うれ)しくなかった。幼稚園のころからの仲良しだったかおりちゃんとお別れしたのが寂しかったし、同じクラスで好きだった竹本くんと離れ離れになってしまったのも悲しかった。
「おにいちゃんにも亜須香(あすか)にも、それぞれの部屋があるよ」
 運転している父親の声も弾んでいた。
「これでよけいな喧嘩(けんか)はしなくて済むわね?」
 母親が朗らかに続けた。母親の言うとおりである。それまでは兄妹一緒の四畳半で二段ベッド。断りなくおれの陣地に入るなだのおれのマンガを勝手に読むなだの、いちいち因縁をつけて来る二歳上の兄とは、しょっちゅうつかみ合いをしていたものだ。
「難を言えば、ベランダが狭いところかな」
「でも、八階だもの。川べりだから見晴らしはいいし、上出来よ」
 両親の会話を聞きながら、あたしは考えていた。
 おにいちゃんとは、確かに仲がいいとは言えない。ベッドの下段で寝ているおにいちゃんは、何の夢をみているのか、真夜中に蒲団(ふとん)を蹴ってどたんばたん暴れるし、いびきもうるさい。しかし、あたしが怖い夢をみたときは、騒がしいおにいちゃんが真下にいるのは心強かった。ひとりじゃない。おにいちゃんも苦しんでいる。あたしの夢の中にいた、あの怖いなにものかは、きっとおにいちゃんの夢の中に移ったんだ。いいぞ。おにいちゃんがうめきながらのたうちまわるうち、あたしの恐怖は消えていく。存分にやってくれ。
 それぞれの部屋? 今後はいったいどうしたらいい。夢の中で、恐ろしいやつに追いかけられたら、どうなってしまうのだ。
 その日、あたしの隣りでずっとゲームをしていたおにいちゃんは自動車に酔って、新居のトイレで最初にげろを吐いた。

プロフィール

加藤元(かとう・げん) 1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『ひかげ旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。

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