よみもの・連載

本日はどうされました?

第四章 稲本亜須香(いなもとあすか)の話

加藤 元Gen Kato

 四月。
 あたしとおにいちゃんは、進級と同時に、区立の小学校へ転入した。
 あたしは四年一組だった。新学期の初日、今までとは違って、知っている子が誰もいない教室。あたしはひとりぼっちだった。決められた机は一番前の席。
「ようこそ四年一組へ」
「知らない子にも話しかけて、新しい友だちをたくさん作りましょう」
「今日から新しい仲間、四年一組」
 そんな言葉が力強く書かれた黒板をぼんやり眺めていた。誰も声をかけてくれない。みな、旧知の親しい子同士で笑い合ったりつつき合ったりしている。あたしは居心地が悪く、不安だった。あの子たち、黒板の文字が読めないのだろうか。あたしに声をかけなよ。かけてよ。新しい友だちだよ。ここにいるじゃないの。
 心の声は誰にも届かない。これから先もこんな毎日が続くのかな。
 悪夢だ、と思う。
 誰とも仲良くなれないまま、毎日を過ごす。怖いものに追いかけられるより厭(いや)なことかもしれない。
 引っ越して来て、自分だけの部屋を持ってから、あたしは二回もそういう夢をみていた。ちょっと前まで住んでいたあの町で、あたしはそいつから逃げている。もとの家には帰れない。そこにはもう、父親も母親もおにいちゃんも住んでいないことは、はっきりと意識している。どこへ逃げよう。そうだ、仲良しのかおりちゃんの家だ。あたしは走る。かおりちゃんの家は線路の向こう側だ。踏切を渡ろうとしたところで、電車が近づいて来て、遮断機が下りる。あたしの背後にそいつが迫って来る。黒い手が伸びて、あたしの肩を掴(つか)む。
 あたしは、あっと叫んで眼を開ける。
 そう、夢ならば覚める。だが、これは夢じゃない。現実だ。
 救いを求めて、前後に視線を走らせる。彼女・・の姿が視界に入ったのは、そのときだった。
 教室の真ん中より、やや窓際の列、後ろから二番めの席。彼女はひとりだった。机の前にぽつんと座っている。四年一組、三十五人の子供たちが小さなグループに分かれ、口々に喋(しゃべ)り、笑っている中、誰とも話をしていない。
 あたしと同じ。
 あの子、どうしてひとりぼっちなんだろう?
 なんて、深く考えることもなく、あたしは立ち上がっていた。
「あたし、稲本亜須香っていうの」
 歩み寄って、いきなり話しかけた。
「この学校に転入してきたばかりなんだけど、友だちにならない?」
 彼女がどんな子であろうが、関係ない。あたしはとにかく誰かと繋(つな)がりたかったのだ。彼女はびっくりしたような眼であたしを見返した。
「私と?」
 あたしのまわりから、ふっと声が消えていた。いつの間にか、あたりは静まり返っている。四年一組の仲間たちが、息を詰めてあたしたちを見ている。
 まずかったかな。
 胸に不安がよぎった。
 あたし、この子に話しかけちゃいけなかったのかな。
「いいよ」
 彼女は戸惑いをすぐさま消して、頷(うなず)いてみせた。
「友だちになろう。私のことは、まなって呼んで」
 それが、まなちゃんとの縁のはじまりだった。

プロフィール

加藤元(かとう・げん) 1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『ひかげ旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。

Back number