よみもの・連載

本日はどうされました?

第五章 佐倉早織(さくらさおり)の話

加藤 元Gen Kato

     *

 藤井さんとは、S病院の外科病棟で一緒でした。同期だったんです。
 私は高校の看護科を出て国家試験に受かったばかりで、藤井さんとは入職した日が初対面でした。
 研修期間で、採血の実習があったんです。その際、私とペアを組んだのが、藤井さんでした。藤井さんの腕に駆血帯(くけつたい)を巻いてもなかなか血管を見つけられず、焦りました。めちゃくちゃ緊張していたんでしょうね。
「ごめんなさい」
 藤井さんには、ひたすら謝りました。おかしなことに、彼女まで申しわけなさそうにするんです。
「わたし、血管が出にくい体質なんです。ごめんなさい」
 藤井さんも、緊張しきっていたと、あとから聞きました。彼女の採血も、お世辞にも上手とは言えませんでした。藤井さんに注射針を刺された痕、けっこうな青あざになって残っていましたもの。
 お互いさま、というところから、藤井さんと仲良くなったんですよね。
 幼い時分、私はわりに躰(からだ)が弱かったんです。母親に連れられて、しょっちゅう近くの小児科病院へ通院していました。そこで看護師さんにやさしくされたか、仕事ぶりが格好よく見えたかして、憧れたのかもしれません。とにかく小学校に上がったころには「将来は看護師」と決めていました。母親や父親にそのことを伝えたら、クリスマスのプレゼントに、ナイチンゲールの伝記を買ってくれたんですよ。看護師といえばナイチンゲール。お約束ですよね。うちの両親、とてもわかりやすいひとたちです。
 小学校の低学年向けに書かれた、少女漫画みたいな挿絵の入ったナイチンゲール物語でした。表紙もお約束。クリミアの野戦病院で、手にランプを掲げたナイチンゲールが、怪我(けが)をした兵士の病床を見まわる場面です。フローレンスの両親はイギリスのお金持ち。新婚旅行でヨーロッパを訪れ、イタリアに滞在中に生まれたのがフローレンス。誕生地フィレンツェから名づけられた名前。一家はイギリスに帰国し、大邸宅で優雅な社交生活を送る。しかしフローレンスはその暮らしに馴染(なじ)めない。心がやさしくて、足を怪我した飼い犬を介抱したりする。フローレンスの母親や姉は、そんな彼女を理解できない。お客さまだパーティーだと、華美な世界を追い求める母親や姉を尻目に、学問と慈善活動に勤(いそ)しむフローレンス。
 内容も、昭和の時代の少女漫画みたいですよね。王道の展開。まんまとはまって、何度も読み返しました。うちもおねえちゃんがいたから、よけいに楽しめたのかもしれません。他人の役に立ちたい、と真剣に考えるフローレンスに対して、姉は刺繍(ししゅう)とお絵かきと自分の幸福以外なーーんにも考えていないキャラクターに描かれていましたからね。おねえちゃんとごちゃごちゃ揉(も)めるたび、ナイチンゲールのねえちゃんだってひどかった、と思って溜飲(りゅういん)を下げていました。
 ナイチンゲールの伝記って、あちこちの出版社から何種類も出ているみたいですけど、藤井さんと私は偶然、同じ本を読んでいたんです。
「学校の図書館に置いてあったのを読んだ」
 って、藤井さんは言っていました。
「あの本を読んで、看護師になろうと決心した」
 私とは逆パターンなんです。まあ、藤井さんの場合の方が自然というか、ありがちな流れですよね。
「罪が深いよね、あの本」
 私は思わず言っちゃいました。
「嘘(うそ)ばっかりなんだもの」
 フローレンス・ナイチンゲールの生い立ち自体は嘘じゃないんですよ。お金持ちの娘が親の反対を押しきって、当時は下層階級の女が就く職業とされていた看護師となり、近代の看護医療を打ち立てた。そのこと自体は本当なんです。でも、フローレンスのキャラクターが違う。やさしくないんです。大人向けの伝記とか、ナイチンゲール文書とか『看護覚え書』を読むとわかります。
 論理的で、きつい女ですよ、フローレンス。

プロフィール

加藤元(かとう・げん) 1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『ひかげ旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。

Back number