よみもの・連載

本日はどうされました?

第七章 市井洋子(いちいようこ)の話

加藤 元Gen Kato

「猫ちゃん、怪我(けが)をしているのよ。触ったらいけない」
「なおして」
 もがきながら、まなは言いました。
「え?」
「おなか、縫ってあげて」
 まなは、死んだ猫をぬいぐるみと同じように思っているのだ。
 それに気づいたとき、おかしな話ですが、私は安堵(あんど)したんです。
 ぬいぐるみと同じ。そして、治してあげたいと思っている。
「あの猫ちゃんは、おかあさんには治せないの」
「どうして?」
 猫が死んでいることを、まなに説明することは憚(はばか)られました。死を理解するにはまだ早すぎる。そう思ったのです。
「猫ちゃんを治せるのは動物のお医者さま。あとでおかあさんがお医者さまに電話をかけておくからね」
 帰りましょう、と言うと、まなは力を抜きました。
「……うん」
 後ろを気にしながら歩き出したまなを見下ろしながら、私は嬉しい気持ちでいっぱいでした。
 まなは、決して残酷なわけじゃない。やさしい気持ちも持っているんだ。
 きっといい子に育ってくれる。きっと。

     *

 まなが四歳のときから、パートタイムで働きはじめました。
 家から出たい。仕事がしたい。それまで、私は毎日そう思っていた気がします。
 まなが生まれたあと、もとの夫との夫婦生活もなくなっていたんです。まなの夜泣きがひどかったせいで、もとの夫は私やまなとは別の部屋で寝るようになっていました。もとの夫は都心の会社で働いていて、私たちの住まいは隣県に接した住宅地でした。毎朝の出勤時間が早かったので、仕方がなかったのかもしれません。私としてもその方がよかったんです。不機嫌そうな舌打ちを聞きたくはありませんでした。
 夫婦仲が壊れていったのは、そういう部分で問題があったのだな、と、今ならわかります。
 当時、私はただ、息苦しかったのです。毎日毎日、鬱々(うつうつ)としていました。
 このまま縛りつけられて、家の中で朽ちていきたくはない。
 だから、働き出したときは、とても嬉しかったのです。
 勤めたのは、主に店舗の内装を請け負う、社長と三人の社員だけの小さなデザイン事務所でした。月曜日から金曜日まで、朝の九時から午後二時までという短い時間帯で、仕事は電話番と資料整理と雑用。時給もそれなりで、あまり難しい業務は与えられなかったものの、以前の職場を妊娠五ヵ月めに退職して以来のお勤めで、毎日緊張していました。子供が小さいとはいえ、なるべく職場に迷惑はかけたくない。気負ってもいました。

プロフィール

加藤元(かとう・げん) 1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『ひかげ旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。

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