よみもの・連載

初恋父(と)っちゃ

第六回

川上健一Kenichi Kawakami

 水沼は幹線道路から函館市街地へとオープンカーを走らせ、住宅街の一画で車を停めて窓を開けた。同じ敷地の広さにきっちりと区画されている家々を眺める。みんな庭付きの家だ。海からの風が生暖かい。南からの柔らかい風で、やんわりと吹いている。晩秋の穏やかな夕方。翌日は暖かい小春日和になりそうな気配が感じられる。生ぬるい微風が水沼の鼻腔を満たし、髪にまとわりつく。
「この辺りなことは確かだな……」
 水沼はナビゲーションシステムの画面を見ながらいう。それから車を降りて街路灯の支柱に貼り付けられた所番地のプレートに顔を近づける。少し薄暗くなっている。それから辺りを見回す。大きな溜め息をひとつ。夏沢みどりが函館に転校した時に住んでいた住所だ。いまも住んでいる可能性はほとんどないだろう。それでも胸の高鳴りを抑えきれない。
「迷子になったクマみたいだぞ。夏沢みどりがいるって分かっているならともかく、可能性は限りなくゼロに近いんだからな」
 小澤がからかう。
「ほんだど、この初恋父っちゃ。とっくの昔にどっかに引っ越してるって。気楽にいきなって」
 山田は軽い調子でいいながら一軒の家の門扉に近づいていく。
 幹線道路から入った古い住宅街だ。新建材の新しい家が、所々にポツン、ポツンとあるが、区画整理された敷地に建つ家々はほとんどが年期の入った木造住宅ばかりだ。昭和四十年代にタイムスリップしたかのようだ。
「何で引っ越ししているって断定するんだ? まだいるかもしれないじゃないか。もしかしたら一回引っ越して、でもここが気に入ってまた戻ってきているということだってある。夏沢みどりはいないかもしれないけど、家族の誰かが残っている可能性だってある」
 水沼は山田の後に続きながらいう。
「そうかもしれないけどそんなに入れ込むことはないよ」と小澤がいう。「だいたいお前は気楽さってものが足りないよ。もしも夏沢みどりがいたとしたって、初恋の愛しいみどりちゃんじゃないよ。もうおばあちゃんなんだからガッカリするだけだよ」
「ここじゃねえのかあ?」
 山田が家を指していう。平屋建ての古い家構えで、雑誌に出ている昭和モダンの家にそっくりだ。生け垣の塀が巡らされているが、きれいに手入れされているような気配はない。表札や住所のプレートはどこにもない。
「何でここだと思うんだ?」
 と水沼がいう。
「いいが、よぐ聞げよ、この初恋父っちゃのホンジナシ。他の家は生け垣とか庭木が手入れされてるども、ここは生け垣はボサボサに伸びているし、庭木も切り整えてる様子はない。なんとなく人の気配もしね。つまり人が住んでねってこどだ。長いこと空き家だってことだよ。夏沢みどりの家族が父親の転勤でここに引っ越してきたってことは、家を買っての引っ越しってへるよりは借家というのが普通だ。札幌がらおらどの学校さ転校してきた時も借家住まいだった。函館に引っ越したのも借家住まいだべ。父親の勤め先は転勤の多い会社だがら、ある程度年をとるまで家を買うのは考えられね。つまりだ、この家はずっと借家で、前は夏沢みどりが住んでいて、またどこかに引っ越ししていって、その後はまた誰かが借りて住んで、その後はまた誰かが住んで、ということをくり返して今は誰も住んでいないという借家だ。だからここに引っ越してきたにまぢげね。どんだど、この灰色の脳味噌の回転の良さ」
「それってさ、ポアロのことだよね。灰色の脳細胞じゃなかったっけ?」
 と小澤が突っ込む。
「やがましね、細かいことはいいんだよ。どれどれ、確かめてみよう。隣の家でこの家のことば訊いてみるべ」
「待て待て。あのお婆さんに確かめてみたら? 長くこの辺りに住んでいそうじゃない?」
 と小澤がいい、水沼と山田は振り向く。

プロフィール

川上健一(かわかみ・けんいち) 1949年青森県生まれ。十和田工業高校卒。77年「跳べ、ジョー! B・Bの魂が見てるぞ」で小説現代新人賞を受賞してデビュー。2002年『翼はいつまでも』で第17回坪田譲治文学賞受賞。『ららのいた夏』『雨鱒の川』『渾身』など。青春小説、スポーツ小説を数多く手がける。

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