よみもの・連載

初恋父(と)っちゃ

第六回

川上健一Kenichi Kawakami

「あらやだあ。美人だなんて、年取ったからもうだめよ。すっかりお婆さんになったもの」
 白髪の婦人の顔が笑顔で崩れる。まんざらでもない様子だ。
「何へってらど、奥さん。まだまだいげる。奥さんの美貌だばミス日本コンテストに出てもなんも不思議でね」
「何いってんだか。からかわないでよ」
「ホントホント。で、やっぱり夏沢さんが引っ越して行ったのは札幌だったのがい?」
「そうなのよ。ほら、札幌の豊平区羊ヶ丘って所」
 封筒の裏書きにある差出人の名前は、夏沢松子となっていて、住所も番地まで書かれていた。
「あのですね」
 水沼はおずおずと口を開く。
「私達と同級生のみどりさんも一緒に札幌に引っ越したんですね?」
「そうなのよ。いいえ、そうじゃない。確か、みどりちゃんは受験で札幌大学に受かって、一年ほど先に一人で札幌に行って下宿してたはずよ。それで一年後に夏沢さんのご主人が札幌に転勤になったんで、札幌のこの住所の家でまた一緒に暮らすことになったのよ。そうそう、そうだったわ」
「いやいやいや、やっぱり奥さんは大した記憶力だ。たまげだなあ。何十年も前の娘さんのことを覚えてるなんて、本当にたいしたもんだ。どでんしてしまう」
「みどりちゃんのことはよく覚えてるのよ。つつましいけどいつもニコニコ笑っていてね、やさしくていい子だったのよ」
 水沼は聞き流しながら家を見回す。建て替えられたとはいえ、夏沢みどりが住んでいた特別な場所だ。しっかりと目に焼き付けておきたい。
「そうか、あの時、ここに引っ越してきたのか……」
 水沼は冬のバス停で最後に見かけた、セーラー服の夏沢みどりを見ているような目を向ける。


 函館港の黒い海の上に靄(もや)がふらついている。まるでスローモーションを見ているみたいだ。背後の函館山の山頂は厚い雲にすっぽりと覆われている。カッターナイフで切り取られたようにまっ平らだ。空にはまだ明るさがしがみついているが、海は夜の帳(とばり)に包まれ始めている。弓なりに続いている対岸の明かりや港に停泊している船の明かりが海に反射してきらめいている。赤やオレンジ、青に黄色に白。水沼は遠くに繋留されている青函連絡船摩周丸を見つめる。青函連絡船はかつて北海道と本州を結ぶ唯一の交通手段だったが、今は廃止されてしまって役目を終えた摩周丸は当時をしのぶ記念館として岸壁に固定されてある。
「小学校の時に、確か修学旅行は青函連絡船に乗って函館だったよな」
 水沼は摩周丸を見つめたまま、その遠くの思い出を見ているような面持ちだ。
 水沼と山田と小澤はベイエリアのボードウォークのベンチにもたれている。飛行機の最終便まではまだ時間があるので、観光スポットになっているベイエリアに寄ってからでも十分に間に合うとやってきた。
「んだったよな。へでもはあ、どったらごどあったんだが忘れでしまってるなあ」
 山田は気なしに口を開く。
「小澤。船の名前覚えてるか?」
「確か、行きは十和田丸じゃなかったか?」
「忘れてしまったよ。六年生の時だから、夏沢みどりも一緒だったはずなんだけど、その時の夏沢みどりの思い出がまるでないんだ。というか、その時の修学旅行の思い出がまるでない。お前らは何か覚えているか?」
 とたんに小澤が反応してうんざりした声を出す。
「覚えてるなんてもんじゃないよ。強烈に覚えてる。俺は船酔いして吐いて、苦しくて死ぬ思いをしたんだよ。それ以来船には一回も乗ってない。そのくらい強烈な思いをしたよ」
「俺はたったひとつだけ覚えていることがある」と山田はいう。「あの当時、米が不足している時代だったから、修学旅行は全員米を持っていったんだよ。確か一升だったんじゃないかな。そのことだけ覚えている」
「そうそうそう。米を持っていったんだよ。重かったよね」
「ああ、そうだったなあ。米を持っていったんだよな。今みたいに食べ物は何でもあふれている訳じゃなかったから、米だけじゃなくて食べ物も金もなかったよなあ。米を持っていったのは、宿泊代金の何割かを米で支払っていたのかもなあ。そういう時代だったよなあ」
「食べ物っていえばさ」と小澤がふいに笑い出す。「中学生の頃、学校帰りに一緒にリンゴだのスイカだのトマトだのマクワウリとか盗みに行ったよね」
「おう、行った行った。育ち盛りだったからとにかく腹空かせていたもんなあ。悪いことだと分かっていたけど、すきっ腹には勝てなかったな」
 山田は朗らかにいう。

プロフィール

川上健一(かわかみ・けんいち) 1949年青森県生まれ。十和田工業高校卒。77年「跳べ、ジョー! B・Bの魂が見てるぞ」で小説現代新人賞を受賞してデビュー。2002年『翼はいつまでも』で第17回坪田譲治文学賞受賞。『ららのいた夏』『雨鱒の川』『渾身』など。青春小説、スポーツ小説を数多く手がける。

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