よみもの・連載

初恋父(と)っちゃ

第十一回

川上健一Kenichi Kawakami

 水沼は呆気にとられて見つめた。工事車両の運転手がヘルメットを被って運転しているのは見たことはあるが、普通の乗用車を運転している人がヘルメットを被っているのは見たことがなかった。老人は助手席側に回ってドアを開けた。助手席側のドアもギイ、ギイと音がしてスムーズに開かなかった。ドアが目一杯に開けられると老人と同じヘルメットを被った老婦人が現れた。小柄で、傍らの老人と同じ背格好だった。老婦人は老人の手を借りて外に出た。スローモーションを見ているようなゆっくりとした慎重な動作だった。ヘルメットを被っている頭髪は短く、曲がった腰を支えるように杖(つえ)をつきながら歩き出した。歩き難(にく)そうによろよろしている。老人たちは連れ立って緑地に設えてあるベンチを目指して歩を進めた。危なっかしい歩みで老婦人を支えている老人も一緒になってグラリ、グラリと揺れている。
 水沼は今にも崩れ落ちそうな一塊をはらはらして見守っていたが、ついに、
「危ない!」
 とかすれた声が出てしまった。
 案の定二人はバランスを崩し、もつれるようにグンニャリ崩れてアスファルトの上に倒れてしまった。水沼は老人たちに向かって走り出した。ベンチに座っていた女が立ち上がり、ベージュのコートの下の黒いスカートの裾をひらめかせながら小走りに走ってくるのが見えた。水沼が二人の所に駆け寄ると老人の方が立ち上がって老婦人を抱き起こしにかかっていた。
「大丈夫ですか?」
 水沼は二人に声をかけた。直ぐさま、
「ケガはありませんか?」
 と女がやって来て老婦人の前にしゃがみ込んだ。透き通るような耳に心地好い綺麗な声だった。心配そうに老婦人の顔を覗き込んでいる。女の髪は少し白いものが交じったショートヘアーだった。綺麗に梳(す)かれていて細いうなじに優雅に曲がり落ちていた。水沼は何かの花のような香りがかすかに漂ってきたような気がした。確かめようと鼻で息を吸ってみたがそういう匂いは感じられなかった。水沼と同じ年格好の女だった。老婦人は息を整えるのに忙しなく微笑しながらうなずくだけだった。女は両手を差し出し、白くのびやかな指を老婦人の腕に触れながら、
「どこか痛いところはありませんか?」
 といった。
 水沼は女の両手をじっと見た。どこかで見た手のような気がする。すぐに中学生の夏沢みどりの手が浮かんだ。
 ――このボールを持って。
 遠足の朝、学校の集合場所で遠足に持っていくバレーボールを両手で持って差し出した、夏沢みどりのまだ大人になりきっていないふっくらとした手。指。あの時の記憶の中の手とはまるで違うけれど、頭に焼きついている中学生の夏沢みどりのあの手が大人になったら、今ここにあるやさしい人柄が感じられる手になっているのかもしれない。

プロフィール

川上健一(かわかみ・けんいち) 1949年青森県生まれ。十和田工業高校卒。77年「跳べ、ジョー! B・Bの魂が見てるぞ」で小説現代新人賞を受賞してデビュー。2002年『翼はいつまでも』で第17回坪田譲治文学賞受賞。『ららのいた夏』『雨鱒の川』『渾身』など。青春小説、スポーツ小説を数多く手がける。

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