よみもの・連載

初恋父(と)っちゃ

第十一回

川上健一Kenichi Kawakami

「すみませんねえ。どこも痛くはないんですけど、どうにも立ち上がれなくて」
 老婦人は弱々しい声で、けれどもあたたかみのある声で応えて女に微笑する。日に焼けて黒い、皺だらけながらも愛嬌のある丸顔だった。
「あなたはどうですか? どこか痛いところはないですか?」
 水沼は老人にいった。
「ああ、ありがとうございやす。俺は大丈夫だけんど、力が無くなってどうにも困ったもんですじゃ」
 と老人はため息交じりに笑いながらいった。彼は老婦人よりも日に焼けていて黒かった。鼻の頭が黒光りしていた。長年太陽をあび続け、日焼けが蓄積されている黒さだった。
「助け起こしてあげても大丈夫ですか?」
 水沼は老人たちの了承を得てから老婦人を抱き起こした。その間、女の白いのびやかな手が老婦人の手をずっと握っていた。水沼はその女と二人で老婦人を両側から支えてベンチまでエスコートした。ベンチに座らせると老人たちは何度も頭を垂れて水沼と女に礼をいった。どこもケガをしていないというので、水沼と女は老人から離れた。女は自分が座っていたもう一つのベンチに向かった。テーブルにペットボトルが置いてあり、それが彼女のものらしかった。水沼はトイレに行ってから自動販売機で飲み物を買おうとしていた。方向が同じなので並んで歩くことにした。女が座っていたベンチの所で別れの挨拶をすればいい。
「あなたがきてくれて助かりました。私一人では何もできませんでしたわ」
 と女がいった。
「ヘルメットを被っているので珍しいなと見ていたんです。目を離していたら助けに来るのが遅れたかもしれません」
「ええ、私も珍しいなあと思って見ていたんです。二人とも倒れてしまってびっくりしましたけど、ケガをしなくてよかったですわ」
「年寄りの転倒は大ケガになりかねませんからね」
「さっきみたいに倒れると危険なので、それでヘルメットを被っているのでしょうか」
「かもしれませんね。それとも車に乗っていることが危険なので被っているのかもしれないですね。凸凹で見るからにしょっちゅう事故を起こしていそうな車ですから」
「ええ。そうかもしれませんね。どこまで行くのか分かりませんけど、あの車とヘルメットを見ているとこの先のことが心配になりますね。それにお年もお年だし。あ、余計なお世話ですよね」
 彼女は小さく笑った。笑うと目が細くなってへの字にゆるやかにカーブを描いた。やさしそうな人柄を感じさせるへの字目の笑顔だった。
 少し強い風が吹いてきて、アスファルトの上の落ち葉が一斉にサラサラと音を立てて動き出した。大きく円を描いて回っている。
「落ち葉が楽しそうですね。みんなで踊っているみたい。タンタンタララン、タンタンタララン」
 彼女はつぶやくようにメロディーをつけて口ずさんだ。タンタンという言葉がスキップしているように弾んだ。やはり透き通るような綺麗な声だった。水沼にはそのメロディーが何なのかすぐに分かった。忘れもしない、中学生の時にフォークダンスで踊った『マイムマイム』。踊りながら一人ずつずれていき、次は憧れの夏沢みどりの手を握れると胸をときめかせると、必ず寸前で曲が終わってガッカリした思い出ばかりの『マイムマイム』。

プロフィール

川上健一(かわかみ・けんいち) 1949年青森県生まれ。十和田工業高校卒。77年「跳べ、ジョー! B・Bの魂が見てるぞ」で小説現代新人賞を受賞してデビュー。2002年『翼はいつまでも』で第17回坪田譲治文学賞受賞。『ららのいた夏』『雨鱒の川』『渾身』など。青春小説、スポーツ小説を数多く手がける。

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