よみもの・連載

ひかる、汗 魔女の抱擁

魔女の抱擁

川西 蘭Ran Kawanishi

スポーツを愛する少年少女を主人公に、ささやかながら重大な日常の問題を描く短編集『ひかる汗』。かつて集英社文庫より刊行された同書に書き下ろしを一編加え、タイトルを少し変えて『ひかる、汗』とし、2021年8月に新エディションで刊行されました。
スポーツは観るのもいいけど、自分が「やる」喜びもまた格別! 読めば身体を動かしたくなる、そして彼ら彼女らの気持ちが痛いほど伝わってくる青春物語。
色褪せない作品群をぜひ体験してみてください!
今回は期間限定で書き下ろし「魔女の抱擁」を特別公開します。

『ひかる、汗』川西 蘭
大好評発売中!!


     1

 闇が蠢(うごめ)いている。ゆっくりと呼吸するように収縮を繰り返す。闇の一部なのか、それとも闇になにか別のものが潜んでいるのか、わからない。目を逸(そ)らしたい。けれど、視線をずらした瞬間、闇から手が伸びてきそうだ。体を丸ごとつかめるくらい大きな手。毛むくじゃらな腕には筋肉が盛り上がり、太い血管が網目模様に浮き出している。拡(ひろ)げた手の、ごつごつした指の先には長く尖(とが)った爪が光っている。獰猛(どうもう)な野獣が牙を剥(む)き、咆哮(ほうこう)を繰り返すように闇が隆起する。逃げなければ。けれど、体が動かない。闇は動きを止める。来る。そう思った瞬間……。

 青白い光がぼんやりとした縞(しま)模様を描いている。部屋の闇は薄い。まばたきをすると、部屋全体が見えるようになった。深呼吸をして、口の上まで引き上げていた薄手の毛布をゆっくりと胸のあたりまで下ろした。
 鼓動はまだ激しい。すーっと鼻から息を深く吸う。肺が膨らんで腹を圧迫する感覚を意識する。吸いきったところで一度、呼吸を止め、腹の底に力を入れて、口から細く長く息を吐き出す。ヨガで習った腹式呼吸だ。数回繰り返すと、鼓動は平常に戻り、気持ちも落ち着いた。
 上体を起こし、枕元に置いていたトレイから水筒を取り、コップに水を注いだ。まだ溶けきっていない氷が揺れ、カラカラと澄んだ音をたてた。
 冷たい水を一口。こめかみが締めつけられるような感じがして目の奥が痛んだ。もう一口。頭の中に澱(よど)んでいた黒い靄(もや)のようなものが薄れていく。
 もう一度、横になろうかと思う。眠気はそれほど強くはないけれど、体はまだ覚醒していない。体の奥底には粘りつくような重い疲れがある。それが消えることはもうないのだろう。
 コップに口をつけたまま、少し迷い、結局、起きることにした。

プロフィール

川西 蘭(かわにし・らん) 1960年広島県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。79年、大学在学中の19歳のとき『春一番が吹くまで』でデビュー。小説を多数発表したのちに出家。現在は作家と僧侶を兼業している。元東北芸術工科大学教授、現在武蔵野大学教授。著書に『パイレーツによろしく』『夏の少年』『セカンドウィンド』『ひかる汗』など。

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