よみもの・連載

ひかる、汗 魔女の抱擁

魔女の抱擁

川西 蘭Ran Kawanishi

 低反発のマットを三つ折りにして、壁に立てかけ、外したシーツをまるめて左腕で抱え、右手に水筒とコップを載せたトレイを持って寝室を出た。がらんとした居間を抜け、キッチンの食卓にトレイを置いたあと、さらに進んで、浴室の手前の洗濯機にシーツを押し込んだ。洗濯機を動かし始めるにはまだ早すぎる。
 キッチンでコップを洗い、湯を沸かして紅茶を淹(い)れた。
 木製の食卓に椅子が二脚、キッチンにある家具はそれだけだ。食器棚は処分してしまった。日常で使う食器はシステムキッチンの収納スペースで充分に間に合う。
 陶器のマグカップを手にベランダに出た。まだ夜は明け始めたばかりだ。空気まで青に染まっている。やや湿気を帯びた空気にはかすかに樹木の匂いがする。若葉から青葉へと季節は移ろうとしている。ベランダの手すりにもたれかかり、マグカップに口をつけた。舌に拡がる苦みと鼻先に漂う紅茶の香りにほっとする。味覚も嗅覚も正常だ。
 敷地内の大きな欅(けやき)の向こうにうっすらと青い靄がかかった街が見える。建物が高台にあるせいで、ベランダからの視界は開けている。街並の向こうには大きな川が流れているが、今は、青みがかった灰色の濃い靄の下に沈んでいた。
 夜明け前に目が覚めるのにも慣れてしまった。もともと眠りは浅い方だった。かすかな動き、小さな物音でも目が覚めてしまう。夫がいなくなって、しばらくの間は眠れない夜が続いた。物音がするわけでもなく、なにかが動く気配を感じるわけでもない。自分以外誰もいない、静寂な空間。けれど、その静けさや動きのなさに敏感になって安心して眠ることができなかった。
 突然、夫を失った驚きのせいだ、と彼女は考えていた。けれど、三年の時がすぎても喪失感は消えることも薄まることもなかった。逆に自分の中にできた空洞は次第に大きさと深さを増しているようだ。空洞の中には闇が広がっている。その暗さと深さにはなすすべもなく慄(おのの)くばかりだ。この喪失感は不当だ、と彼女は思う。二人ですごしていた時の夫の存在感の希薄さとは釣り合わない……。

プロフィール

川西 蘭(かわにし・らん) 1960年広島県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。79年、大学在学中の19歳のとき『春一番が吹くまで』でデビュー。小説を多数発表したのちに出家。現在は作家と僧侶を兼業している。元東北芸術工科大学教授、現在武蔵野大学教授。著書に『パイレーツによろしく』『夏の少年』『セカンドウィンド』『ひかる汗』など。

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