よみもの・連載

ひかる、汗 魔女の抱擁

魔女の抱擁

川西 蘭Ran Kawanishi

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 川を渡る風はひんやりとして気持ちが良い。橋桁の陰に逃げ込んで、彼女はようやく一息ついた。サングラスを外し、顔の汗をハンカチで拭う。思ったよりも気温が上がり、全身が汗ばんでいた。すぐにでも自宅に戻ってシャワーを浴びたい気分だった。
 たまには外に出て気張らしでもしないと、心を病んでしまうよ。
 娘からのメッセージがスマホに届いていた。アドバイスにしたがって散歩に出た。テニスクラブの近くにある、馴染(なじ)みの店で野菜のサンドイッチとアイスティーをテイクアウトした。併設のカフェは休業中だ。たまに散歩する公園は、老朽化した体育館の建替え工事中で大型トラックの出入りが激しい。騒音もひどい。公園のベンチを諦めて、ランチを取るのに適当な場所を探して、川沿いの遊歩道を目指したところまでは良かった。
 遊歩道を歩く人は予想よりも多かった。スタイルはさまざまだ。ジョギングに近いペースで早歩きする人もいれば、一歩一歩確かめるようにゆっくりと歩く人もいる。時々、ものすごい速さでスポーツタイプの自転車が走りすぎていく。歩く人たちは慣れているのか、脇に寄ってやりすごすと、何事もなかったかのようにまた歩き始める。常連の人たちの間では、一定のルールができあがっているのだろう。
 けれど、馴染みのない彼女にはカオスだった。自分のペースで歩くには、道のどのあたりを進めばいいのか、判断できない。右端を歩くと、すぐに前の人に追いついてしまう。中央寄りにコースを変えると、今度は前との差が開きすぎて、後続の人から追い立てられてしまう。
 楽しくない。言葉にすると、感情の輪郭がはっきりとした。歩くだけでも疲れるのに、気を使ってストレスを溜(た)めるのは苦痛以外のなにものでもない。娘の言葉に触発されたのを少し後悔していた。
 薄曇りだった空はいつの間にか晴れ、日差しも強くなっている。川面(かわも)を渡る風だけが救いだ。
 額に押しつけていたハンカチを拡げ、叢(くさむら)の上に置いた。どこでも良いから座りたい。ベンチは見当たらず、もう一歩も歩く気はしなかった。
 叢の上に座り、脇にサンドイッチの袋を置いた。持ち歩いたせいで紙袋は皺(しわ)だらけになっている。サンドイッチも変形しているにちがいない。アイスティーを入れた水筒を開けようとした瞬間、強い風が吹いた。砂が舞い上がるのが視界の端に見える。反射的に彼女は状態を屈(かが)め、顔を右腕に押しつけて砂ぼこりを避(よ)けた。
 突風が去るのを待って、顔を上げた。案の定、水筒には細かい砂がついていた。指先で砂を拭い、蓋を外す。内部には入り込んでいないようだ。アイスティーを外した蓋に注ぎ、一口飲む。香りが鼻先に漂い、苦みが口に広がる。おいしい。けれど、最後に細かな砂の感触が舌先に残る気がした。
 サンドイッチ。
 左右を見回す。紙袋ごと吹き飛ばされて、見当たらなかった。

プロフィール

川西 蘭(かわにし・らん) 1960年広島県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。79年、大学在学中の19歳のとき『春一番が吹くまで』でデビュー。小説を多数発表したのちに出家。現在は作家と僧侶を兼業している。元東北芸術工科大学教授、現在武蔵野大学教授。著書に『パイレーツによろしく』『夏の少年』『セカンドウィンド』『ひかる汗』など。

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