よみもの・連載

ひかる、汗 魔女の抱擁

魔女の抱擁

川西 蘭Ran Kawanishi

「仮想現実」
「Augumented Reality」少年はぶっきら棒に言った。きれいな英語の発音だった。画面を消し、無造作に腕を背後に回して、リュックにタブレットを突っ込んだ。「拡張現実」
 少年は川の上流に視線を向けた。風の動きを確かめるように頭を少し傾(かし)げた。自分には聞こえないものに耳を澄ませ、見えないものに目を凝らしているようだ。
「学校には行かないの?」
 少年はリュックの上部から伸びた細いパイプの先を口にくわえた。透明な液体がパイプの中を流れるのが見えた。少年ののどが上下に動き、こめかみから一筋汗が流れ落ちた。
「行かない」
 グローブで汗を拭うと、少年は彼女に背中を向けて、歩き出そうとした。
「勇者フジヤマ(brave_fujiyama)」
 呼びかけると、少年はぎょっとしたように振り返った。画面の隅に表示されていた名前だ。ゲーム内での少年の名前に違いない。
「なにかお礼をしたいのだけれど」
 彼女は紙袋を振って見せた。
 少年はちらりと視線を向けただけで、すぐに興味を失ったようだ。
「もういいかな?」少年は早口に言った。「時間を無駄にしたくない」
「ごめん。勇者の邪魔をしたみたいね」
 少年はじっと彼女を見つめ、すぐに視線を逸らした。その一瞬で自分が隅々までスキャンされた気分になった。
「婆(ばば)は勘違いしている」
 声が聞こえた時にはもう、少年はやや前屈みになって歩き始めていた。曲げた腕を前後に振り、歩くピッチを上げる。向かい風に怯(ひる)む様子もなく、スピードに乗って、少年の姿は遠ざかっていく。叢の中に立ち、彼女は少年のうしろ姿を見送った。サンドイッチの紙袋が急に重さを増したように感じた。突然強い風が吹き抜けた。一瞬、顔を背けた間に少年の姿は消えていた。

プロフィール

川西 蘭(かわにし・らん) 1960年広島県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。79年、大学在学中の19歳のとき『春一番が吹くまで』でデビュー。小説を多数発表したのちに出家。現在は作家と僧侶を兼業している。元東北芸術工科大学教授、現在武蔵野大学教授。著書に『パイレーツによろしく』『夏の少年』『セカンドウィンド』『ひかる汗』など。

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