魔女の抱擁
川西 蘭Ran Kawanishi
「バーバですね」
おばあちゃんの愛称と賢者マーヤは思ったらしい。賢者だって時には勘違いをするだろう。
スマホを手にした賢者マーヤの目がわずかだが左右に揺れ動いた。
「どうかした?」
「職分が……。お気に召さなければ、別のIDでやり直すこともできますから」
「見せて」
おずおずと差し出されたスマホの画面の中央に名前と職分が表示されていた。
魔法使いバーバ(mage_baba)。
それがコンピュータが彼女に与えた職分だった。
「悪くない」アイコンはごつごつした杖(つえ)を持つ金髪の老婆だった。「私にぴったり」
ウォーキング用のウェアとシューズも新調した。臨時休業をきっかけに通っていたスポーツジムを退会して以来、運動とは縁のない生活を送っていた。ウェアやシューズも処分してしまって、手元にはない。簡素な生活は気楽だけれど、新しいことを始めるとなると、すべてを一から揃えなければならない。
半日がかりで買い物を終えて帰宅すると、すぐに拡張現実ゲームの準備に取りかかった。スマホにコードを差し込み、充電しながら、ゲームの説明書を読み始めた。
一時間ほど格闘したけれど、概要をつかむのも難しかった。
膨大な説明文を読まなければならないゲームを大勢の人がするだろうか?
単純な疑問だ。
たぶん、多くの人は説明書を読まないで、ゲームを始めているのだろうし、それで格別の不自由を感じてはいないのだろう。
つまり、と彼女は思った。ゲームの基本だけ理解すれば充分だ。
登場するモンスターを捕獲すると、図鑑に登録される。歩いていると、さまざまな道具(アイテム)を得られたり、珍しいモンスターと遭遇できる。
とにかく歩くことです、と賢者マーヤの声が蘇る。あとはスマホがやってくれます。
賢者の導きの言葉を疑う理由はない。
翌朝からモンスター探索の冒険が始まった。
- プロフィール
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川西 蘭(かわにし・らん) 1960年広島県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。79年、大学在学中の19歳のとき『春一番が吹くまで』でデビュー。小説を多数発表したのちに出家。現在は作家と僧侶を兼業している。元東北芸術工科大学教授、現在武蔵野大学教授。著書に『パイレーツによろしく』『夏の少年』『セカンドウィンド』『ひかる汗』など。