よみもの・連載

ひかる、汗 魔女の抱擁

魔女の抱擁

川西 蘭Ran Kawanishi

 最新のスマホを片手に開始したモンスター狩りの冒険は意外に飽きが来なかった。目標がほどよい距離で設定されていて、適度に休憩が取れ、気づかないうちに長い距離を歩くことができる。モンスターとのバトルは脚休めになるが、面倒な時にはコンピュータ任せにもできる。
 近場の住宅街から探索を始めたが、立ち止まってスマホを操作していると不審者に間違われるおそれがあることに気づいて、住宅街からは早々に撤退した。ジョギングコースのある公園、老舗のテニスクラブ、数年前にできた新しいショッピングゾーン。マンションとオフィスの二棟建ての高層ビル(ツインタワー)の付近にもモンスターの出現スポットがあった。こんなところに作らなくてもいいのに、と誰しも思うことを彼女も思った。魑魅魍魎(ちみもうりょう)が現実に跋扈(ばっこ)しているのに。
 ゲームに集中すると、水分補給を怠ったり、体力的な限度を超えて歩き続けたりしがちだ。その点にだけ注意するようにした。脱水やオーバーワークで倒れるのはみっともない。気温も上がり、日差しも強くなる時期だから、いくら注意してもしすぎるということはない。
 始めたばかりの頃は、一時間も歩くと、脚が痛んだけれど、十日がすぎ、半月がすぎると、三時間ほど歩けるようになった。もちろん、疲れはする。脚だけでなく、全身が痛む。家にたどり着く頃にはへとへとだ。モンスターを倒す魔女でもなんでもない。ただの疲れ果てた老婆だ。
 老婆は温(ぬる)めの湯を張ったバスタブに身を沈め、目を閉じる。入浴剤の香りに包まれ、森林の奥にある美しい湖に身を横たえている気分になる。温(ぬく)もりがじわじわと体に染み込み、疲れや筋肉痛を消し去っていく。
 ボトルから直(じか)に常温の水を飲むと、全身から汗が吹き出す。歩いている最中にはこまめな水分補給を心がけているが、それでも体は水分を欲している。口から飲んだ水は胃に流れ込み、やがて全身に行き渡って、汗となって流れ出る。自分が濾過器(ろかき)にでもなった気がする。水が巡ると、体内の汚物が少しずつ洗い流されていく。粘ついていた汗はさらりとした水になり、かさかさに乾いていた皮膚は潤いを取り戻す。
 早めに夕食を済ませ、午後十時前には床に就く。眠りはすぐに訪れる。目が覚めるのは、夜明け前だ。上体を起こし、しばらく闇を見つめている。闇の中になにかが潜んでいる。その感覚はなくならない。悪夢を見ているのかいないのかは判然としない。見ていたとしても口から悲鳴とともに心臓が飛び出してしまいそうなほどの恐怖を感じることはない。目を開いた時、なにか邪悪なものが直前まですぐそばに佇(たたず)んでいた気配を感じるだけだ。

プロフィール

川西 蘭(かわにし・らん) 1960年広島県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。79年、大学在学中の19歳のとき『春一番が吹くまで』でデビュー。小説を多数発表したのちに出家。現在は作家と僧侶を兼業している。元東北芸術工科大学教授、現在武蔵野大学教授。著書に『パイレーツによろしく』『夏の少年』『セカンドウィンド』『ひかる汗』など。

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