よみもの・連載

ひかる、汗 魔女の抱擁

魔女の抱擁

川西 蘭Ran Kawanishi

 脚は第二の心臓だ、と夫はよく言っていた。歩いていると、血流が良くなって、末端に溜まっている老廃物もきれいになる。
 それは馬の話でしょ?
 夫は肩をすくめて苦笑いを浮かべた。
 競馬が夫のほぼ唯一の趣味だった。競馬場に足繁(あししげ)く通い、自宅にいる時にはラジオやテレビ中継にかじりついて、レースの結果や競走馬の状態を克明に記録していた。結婚した時点で競馬用の大学ノートは段ボール箱一箱分はあった。大きなレースの時には彼女を誘うこともあり、新婚の頃は何度かふたりで競馬場を訪れた。緑の芝生は目に優しく、競走馬の疾走する姿は美しく、気分転換にもなったけれど、子どもが生まれてからは夫からの誘いもなくなった。四十歳をすぎた頃だろうか、京都で大きな事故があり、競走馬が予後不良となったニュースが流れたあと、夫は競馬をすっぱりとやめた。競馬新聞を買ってくることもなければ、テレビ中継を観(み)ることもない。食卓で話題にすることもなくなった。
 復活したのは、定年退職して、半年ほどすぎた頃だ。
 週末を所在なげにすごす夫を見ていられず、彼女が勧めた。切り出したのは、秋の午後だった。降り続いた雨が上がり、久しぶりにすっきりと晴れていた。窓を開けると、気持ちの良い風が吹き込んでくる。昼食ができた、と居間のソファで本を読んでいた夫にキッチンから声をかけた。夫は生返事をして、メガネを外し、閉じた本の上に置いた。慎重に歩を進めてキッチンの食卓にたどりつくと、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。すべての動きが緩慢としていた。この人は老いたのだ、とその時、実感した。
 うまそうだな。
 つぶやいて、夫はフォークを手に取った。昼食はナポリタンだった。夫の好物だ。学生時代、アルバイトをしていた喫茶店の髭面(ひげづら)のマスターからレシピを教わった。喫茶店はテニスクラブの近くにあって、昼間は室内楽が流れる清潔な雰囲気でテニススクールに通う主婦や女子学生で賑(にぎ)わっていた。夕方からはレゲェが流れ、やや客層が変わって、ビールや軽いアルコール飲料がよく出た。彼女がバイトを終えたあとの深夜、店がどんなふうになるのか、マスターは教えてくれなかった。『パルフョム』。今は地産の有機野菜を使ったサンドイッチを売る店になっている。マスターから教わったレシピを忠実に守っていたけれど、夫が五十歳をすぎた頃から塩分を少しずつ減らしていった。

プロフィール

川西 蘭(かわにし・らん) 1960年広島県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。79年、大学在学中の19歳のとき『春一番が吹くまで』でデビュー。小説を多数発表したのちに出家。現在は作家と僧侶を兼業している。元東北芸術工科大学教授、現在武蔵野大学教授。著書に『パイレーツによろしく』『夏の少年』『セカンドウィンド』『ひかる汗』など。

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