よみもの・連載

ひかる、汗 魔女の抱擁

魔女の抱擁

川西 蘭Ran Kawanishi

 サラダも食べて。
 夫は黙ってうなずくと、フォークにナポリタンを巻きつけた。
 気晴らしに競馬にでも行って来たら?
 思い切って言ってみた。前から考えていたことでもあった。楽しいことをしなければ、なんのための人生だろう?
 ……競馬?
 最近、週末に出かけることもないから。
 競馬か……。
 ナポリタンとサラダを食べ終わると、夫は自分で紅茶を淹れた。
 食事の片づけは夫の担当だった。今日はいい、と言ったけれど、夫は聞かなかった。これはぼくの楽しみだ。彼女が食べ終わるのを待ち、流し台の前に立って皿洗いを始めた。食洗機を使わず、手洗いするのが彼のこだわりだった。スポンジで丁寧に脂汚れを落とし、布巾で水滴をきれいに拭い取る。片づけを終えると、くるりと振り返って、立ったまま言った。
 お言葉に甘えて、明日は競馬に行く。
 それがいい、と彼女は言った。勇気を出して切り出して良かったと思った。
 好きなものだけを見て生きるわけにはいかない。嫌なものも見なければならない。嫌なものを見たくないがゆえに、好きなものを見ないのは惜しい。もう、残された時間は長くはないのだから。
 夫の最後の競馬ノートの冒頭に記されていた。彼女が再開を勧めた日の夜に書かれた文だ。幸い、夫は死を迎えるまで競走馬の事故を目にすることはなかった。競走馬たちはいつも神々しいばかりに体を光らせて、芝の上を疾走していく。美しいその姿を夫はいつも写真に撮ってスマホに送ってくれた。

プロフィール

川西 蘭(かわにし・らん) 1960年広島県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。79年、大学在学中の19歳のとき『春一番が吹くまで』でデビュー。小説を多数発表したのちに出家。現在は作家と僧侶を兼業している。元東北芸術工科大学教授、現在武蔵野大学教授。著書に『パイレーツによろしく』『夏の少年』『セカンドウィンド』『ひかる汗』など。

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