よみもの・連載

ひかる、汗 魔女の抱擁

魔女の抱擁

川西 蘭Ran Kawanishi

     4

 三日ほど降り続いた雨がようやく上がった。
 灰色の分厚い雲が空を覆い、空気は湿っぽい。けれど、雨粒が落ちてくる気配はない。空気は少しひんやりとしている。少しずつ雲が晴れてくれればいいのに。
 薄手のレインウェアを羽織って、建物を出た。
 路面はまだ濡(ぬ)れている。水たまりの端を踏んで、水滴が跳ね上がる。それだけで笑い出しそうになった。
 長い急坂を下り、大通りの手前で信号待ちの間に、サングラスのレンズについた細かい水滴を丁寧に拭い取った。雨の名残りなのだろう、川沿いには濃い霧が立ち込めていた。
 新しいショッピングゾーンを早足で通り抜け、遊歩道に上がった。歩いている人は少ない。川の上流に見える山々は灰色の雲と霧に包まれている。また雨が降り出しそうだ。
 スマホの画面を確認して、ウォーキングの体勢を整えた。背筋を伸ばし、腹筋を意識して、肩と腕に力みがないようにする。視線は前方やや遠目に向け、あごを引き、肘を曲げて大きく腕を振り、広めの歩幅でしっかりと路面を蹴る。
 最初の休憩地点でレインウェアを脱いだ。
 まだ汗はかいていない。リュックにウェアを仕舞い、水筒を取り出した。マスクを外して、一口水を飲む。のどの奥にすっと消えるようだった。スマホの画面でモンスターの捕獲数とアイテムの取得数を確認し、アプリを閉じた。ミント味のタブレットを口に放り込んで、マスクをつける。リュックを背負うと、すぐに歩き始めた。
 前を見て、腕を振り、歩幅を広くしてペースを維持することに集中していると、雑念が頭から消えていく。プールで長い距離を泳いでいる時と同じだった。

 そろそろ限界だ、と思い始めてから、どれくらいたったろう?
 足を止めるタイミングを逃してしまった。
 ぱっと視界が明るくなる。川面が輝き、風で叢が波打ち、きらめく。反射的に見上げた空は白い光を放つ薄い雲に覆われている。
 急な夏の訪れだ。
 こめかみから汗が流れ落ちた。反射的に指先で汗を拭う。マスクは汗を吸って湿っぽくなっていた。呼吸に抵抗を感じるほどではないが、早めに交換するに越したことはない。
 もう少し歩けば、河川敷にサッカー用のピッチが何面かある。以前は公営のゴルフリンクスだった場所だ。二十年近く前、記録的な大雨で河川敷は濁流に呑(の)まれ、土手も決壊寸前になったことがあった。水が引いたあと、壊滅したゴルフリンクスは、全天候型のサッカー用ピッチに生まれ変わった。幅広い年齢層の需要があると判断されたためだ。自治体としては珍しくその判断は正しかった。ゴルフリンクス時代よりもずっと多くの人がこのピッチを利用していた。

プロフィール

川西 蘭(かわにし・らん) 1960年広島県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。79年、大学在学中の19歳のとき『春一番が吹くまで』でデビュー。小説を多数発表したのちに出家。現在は作家と僧侶を兼業している。元東北芸術工科大学教授、現在武蔵野大学教授。著書に『パイレーツによろしく』『夏の少年』『セカンドウィンド』『ひかる汗』など。

Back number