よみもの・連載

ひかる、汗 魔女の抱擁

魔女の抱擁

川西 蘭Ran Kawanishi

 ゴーグルをぴんと伸ばした人指し指で押し上げた。ふと思った。ゴーグルとマスクを外した時、お互いに相手を認知できるだろうか? 少年には可能かもしれない。けれど、自分には難しい。
「まだ続けている?」
 うなずいて、彼女はスマホを見せた。少年は画面を一目見ただけですぐに視線を逸らせた。横顔には照れのような、複雑な表情が浮かんでいた。
「でも、前ほど熱心ではない」
「魔女はすぐに飽きる」
 リュックからタブレットを取り出した。ケースが頑丈なものに変わっていた。消耗が激しいのかもしれない。
「歩くのに忙しいのよ」
 少年は彼女の方に顔を向けた。どう理解していいのか、迷っている風だった。
「歳(とし)を取ると」と彼女は言った。「ふたつのことを同時にするのは難しくなる」
 少年は首を振った。肯定したのか否定したのか、よくわからなかった。タブレットの画面をタップして、リュックに戻した。
「それは歳のせいかな?」
「……そうじゃない?」
「たぶん。ぼくはまだ若いけれど」と勇者フジヤマは言った。「ふたつのことを同時にするのは苦手だ」
 リュックを背負い、川の下流に体を向けた。風が強くなる。少年は右手を高く上げ、足を一歩踏み出した。影が揺らいだ、と思った次の瞬間には少年はもう十メートルほど先を歩いていた。
 勇者フジヤマにミネラルウォーター一本の借り。
 スマホのメモに書き込んで、ゆっくりと立ち上がった。急ぐ必要はない。水のあるうちに自宅に帰りつくことができれば、それでいい。彼女はスマホで時刻を確かめ、背筋を伸ばして、少年とは逆方向に歩き始めた。

プロフィール

川西 蘭(かわにし・らん) 1960年広島県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。79年、大学在学中の19歳のとき『春一番が吹くまで』でデビュー。小説を多数発表したのちに出家。現在は作家と僧侶を兼業している。元東北芸術工科大学教授、現在武蔵野大学教授。著書に『パイレーツによろしく』『夏の少年』『セカンドウィンド』『ひかる汗』など。

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