よみもの・連載

ひかる、汗 魔女の抱擁

魔女の抱擁

川西 蘭Ran Kawanishi

     5

 夏は驚くほどの速さですぎていく。
 梅雨が明けると、日中は動くこともできない暑さになった。
 夜明け前、あたりがまだ暗いうちに起き出し、準備を整えて、建物を出ると、闇は薄くなっている。悪夢の名残りを振り切るようにゆっくりと歩き始める。悪夢から完全に解放されることはないのだろう。どれほど倒したり捕獲したりしても、襲いかかってくるモンスターが拡張現実の世界から尽きることがないように。
 体がウォーキングのリズムに乗り、調子が出てくる頃に夜が明ける。一時間から二時間、無言で歩き続ける。スマホの画面を見ることもあまりない。目的地だけ確認し、前を見つめて歩く。集中をゲームにも邪魔されたくなかった。
 週に一度か二度、黒ずくめの少年を見かけた。遊歩道を歩いていることもあれば、川沿いの叢を突き進んでいることもあった。川にかかる橋を渡っているうしろ姿を見たことがある。少年も明け方の涼しい時間帯を活動に当てているのだろうか。これから冒険に出かけるのか、それとも、帰宅しようとしているのか、その姿からは判断できなかった。少年は彼女を認めると、軽く手を振ってきた。挨拶代わりだ。彼女も手を振り返す。立ち止まって言葉を交わすことはなかった。相手がそこにいることを確認するだけで良かった。少年と手を振り合った日は、なぜか、いつもより足が軽く、探索も捗(はかど)るような気がした。彼女の中で、勇者フジヤマは同志フジヤマに変わりつつあった。

 ベルが鳴った時、一瞬、何の音かわからず、電話だと気づくまでに少し時間がかかった。汚れた皿を食洗機に入れてからキッチンを出て、居間の電話の受話器を取り上げた。
 もしもし……。
 聞こえてきたのは、建築設計事務所のオーナーの声だった。外出が思うようにできなくなる前は、月に一度は会っていた。四半世紀ほどつきあいのある、数少ない友人の一人だ。
 すぐに出てくれないと、心配になるんだけど。
 携帯にかけてくれれば良かったのに。
 電話は古いコード式だ。スマホを使うようになってからは居間の隅に鎮座する大きな長持同様、アンティークな置物になっている。
 何度もかけたわよ。
 そう?
 ソファに投げ出したままになっていたスマホに手を伸ばす。画面は真っ暗だ。時刻表示もない。電源ボタンを押したが、反応はなかった。充電が切れている。
 大丈夫?
 大丈夫よ。壁を背にして床に腰を下ろした。元気?
 おかげさまで。
 声には張りがある。友人はいつも活力に溢(あふ)れている。行動的で社交的。大手建設会社から独立してオフィスを構え、手堅い仕事と独創性で顧客の信頼を得て、業界では名の知れた会社に育て上げた。受話器から感じる圧力のようなものは、知り合った頃と変わらない。

プロフィール

川西 蘭(かわにし・らん) 1960年広島県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。79年、大学在学中の19歳のとき『春一番が吹くまで』でデビュー。小説を多数発表したのちに出家。現在は作家と僧侶を兼業している。元東北芸術工科大学教授、現在武蔵野大学教授。著書に『パイレーツによろしく』『夏の少年』『セカンドウィンド』『ひかる汗』など。

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