魔女の抱擁
川西 蘭Ran Kawanishi
ひとつ、訊いていい?
いいけど、なに?
友人はちょっとためらった。珍しい。思ったことをずばずばと口にするのが、普段の友人だ。
あなたを見かけた人がいて……。雨の中を歩いていたらしいじゃない? 傘も差さずに。
友人に知らせるほどひどい姿に見えたのだろうか? ウォーキングの時にはいつも同じ格好だ。スポーツ用の機能性ウェアの上下に半袖シャツと膝丈のパンツ。底が厚めのジョギングシューズ。ゴーグルとマスクで顔を覆い、キャップをかぶって、リュックを背負う。雨が降っている時にはレインウェアを羽織って、キャップの代わりにフードですっぽりと頭を覆う。たしかに、街を散策するには怪しげな格好ではある。
見かけた人によると、なんと言うか、ものすごく集中していた……聞いた通りに言うと、鬼気迫る形相だった。
急な雨で早く家に帰りたかったのだと思う。
なるほど。
その人は何者なの? よく私だとわかったね。
あなたのファンよ。良かったら、一度、お茶でもしない? 彼も一緒に。
茶飲み友だちは、あなただけで充分よ。これ以上、交友関係を拡げても煩わしいだけ。
なんか、過剰に老け込んでない?
これが本音。あなたも私くらいの歳になればわかる。
友人は十歳近く下だ。再婚相手が一回り近く歳下だから、気持ちは実年齢よりもずっと若々しい。
とにかく、と区切りをつけるように友人は言った。あなたが大丈夫だとわかって良かった。
お互いにね。涼しくなったら、二人でお茶でもしましょう。リフォームもその時までに考えておく。
受話器を置いて、電話を長持の上に戻した。長さ八尺五寸、幅と高さは二尺五寸。棺桶(かんおけ)代わりにできる大きさがある。百五十年以上も前に作られたものだけれど、頑丈で、蓋もきっちりと閉まる。家具のほとんどは処分して、残っているのはこの長持くらいだ。彼女の持ち物はすべてここに収まっている。彼女がいなくなれば、娘が長持を受け取り、たぶん、そのほとんどを廃棄処分にしてしまうだろう。
壁際に立って、居間を見回した。長持を除けば、古い二人がけのソファがひとつとスタンド照明が一台あるだけだ。キッチンには食卓がひとつ、椅子が二脚。どの部屋もがらんどうだ。寝室には低反発のエアマットとケットがあるだけ。明日にでも床を剥がし、壁を取り去る工事を始めることができる。
- プロフィール
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川西 蘭(かわにし・らん) 1960年広島県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。79年、大学在学中の19歳のとき『春一番が吹くまで』でデビュー。小説を多数発表したのちに出家。現在は作家と僧侶を兼業している。元東北芸術工科大学教授、現在武蔵野大学教授。著書に『パイレーツによろしく』『夏の少年』『セカンドウィンド』『ひかる汗』など。