よみもの・連載

ひかる、汗 魔女の抱擁

魔女の抱擁

川西 蘭Ran Kawanishi

 リフォームを言い出したのは夫だった。
 老後の生活に備えて、使い勝手が悪くなった部屋をリフォームするか、それとも新しい家に移るか、を考えるようになり、結局、この土地を離れる気にはならなくて、リフォームを選んだ。老後の生活を送るための部屋、となると、徹底してバリアフリーにして、かつ、自分たちの生活スタイルに合ったものにしたかった。今さら家に合わせて行動様式や性格を変えるのは苦痛だ。
 君が設計すればいい。
 夫は事もなげに言い、戸惑ったものの、彼女もそれが一番良いような気がした。勘を取り戻すのに少し時間はかかったけれど、思ったほど難渋することもなく、リフォーム案は完成し、夫も満足してくれた。
 すぐに工事にとりかかろう。
 夫の言葉を受けて、彼女は友人に電話をしてリフォーム工事の手配を依頼した。
 古い家具や不用品をすべて処分した。売れるものは売り、残りは廃棄処分した。思い切って部屋を空にしてしまうと、不用品とがらくたの中で暮らしていたのだと実感した。必要なものなど数少ない。
 リフォーム工事を終えたあと、新しい調度品を入れる予定だった。
 が、調度品を運び入れる前にリフォーム工事は中止になった。
 夫が急に亡くなったためだ。
 格別に持病があったわけでもなく、健康には気をつけていた。退職してからはほとんど酒も飲まず、一日一時間の散歩を習慣にしていた。前夜もいつもと変わらなかった。軽めの夕食を済ませ、早々に寝支度を済ませて、ラジオを聞きながら、居間のソファで本を読んでいた。彼女が風呂から上がった時にはもう居間に姿はなく、ソファの上に読みかけの本が置きっ放しになっていた。本を閉じ、明かりを消して、彼女は自分の部屋に入った。
 翌朝、いつもは早起きの夫が八時をすぎても部屋を出てこないのが気になって、ドア越しに声をかけた。返事がない。急に不安になって、部屋に入ったとたんに異変を悟った。
 すべてが動きを失っていた。空気は重く、カーテンの隙間から漏れる光は弱い。夫は仰向けのまま、律儀に体を伸ばして目を閉じていた。枕にきちんと頭を乗せ、タオルケットはあごの下まで引き上げられていた。苦しんだ様子はない。顔は白く、薄闇の中でぼんやりと微光を放っているようだった。体に触れるまでもなかった。夫は逝(い)ってしまった。ここにはもういない。圧倒的な喪失感に押し潰されて、彼女は床に両膝をついた。背後からの光で板張りの床に自分の影が映っていた。影が震えるように揺れている。影を見ている以外、なにもできなかった。
 喪失感はなかなか消えなかった。体の中に底なしの空洞ができたようだった。空洞はすべてを吸い取ってしまう。力も熱も時間も光も。哀(かな)しみもなく、涙も出てこない。ただ喪失感があるだけだった。
 半年もすれば、気分は回復するだろう、と思っていた。結婚生活は短くない(四半世紀を超えている)けれど、一緒に暮らしたという実感はあまりない。もともと存在感の薄い人だった。恋愛感情があって結婚したわけでもない。学生時代からつきあっていた相手と社会人になって五年目に別れ、親の勧めで見合いし、元恋人への当てつけのように結婚したのが夫だった。後悔はしていない。けれど、夫を受け入れるまでには時間がかかった。本当に受け入れられたのかどうか、今でも自信はない。そんな人がいなくなって、なぜこれほどまでに自分の中に空洞が広がるのか、不思議でならなかった。

プロフィール

川西 蘭(かわにし・らん) 1960年広島県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。79年、大学在学中の19歳のとき『春一番が吹くまで』でデビュー。小説を多数発表したのちに出家。現在は作家と僧侶を兼業している。元東北芸術工科大学教授、現在武蔵野大学教授。著書に『パイレーツによろしく』『夏の少年』『セカンドウィンド』『ひかる汗』など。

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