よみもの・連載

ひかる、汗 魔女の抱擁

魔女の抱擁

川西 蘭Ran Kawanishi

     6

 夜明けの遊歩道を歩いていた。
 青黒い空を黒い影が飛び回り、ギャーギャーと鳴き声が響き渡る。背後から闇が襲いかかってくるような気がして、彼女は歩幅を拡げ、足の動きを速めた。
 たとえ、ゆっくりと歩いても、追いつかれることはない。そう確信していた。追いかけてくる闇は、彼女を泳がせている。近づいて不安に陥れ、充分に恐怖を感じさせるのが目的だ。速く歩いても逃れることはできないし、立ち止まって闇に包まれたとしても追われている時以上の恐怖に搦(から)め捕られることもない。
 胸の苦しさを感じ、マスクの下で大きく口を開けた。
 新鮮な空気が流れ込んでくることはない。じめっとした生暖かい空気がのどの奥を撫でていくだけだ。口元に手を当て、少しマスクをずらして、鼻から息を吸い込んだ。
 湿った空気が草の匂いとともに鼻腔(びこう)から入ってくる。後頭部が少しだけすっきりとする。マスクを上げて鼻を覆い、空唾を呑み込んだ。出かける前に口にしたミントの香りがふいに鼻先に漂った。
 胸が痛み、目に涙が滲(にじ)んだ。込み上げてきた嗚咽(おえつ)が漏れるのを止めることができない。長袖の機能性トップスに包まれた右腕に顔を押しつける。なぜ、泣くのか、自分でもわからなかった。ただ、自分は許されないことをしている、という思いだけがくっきりと胸に刻まれる。その思いから逃れることはできない。背後から執拗(しつよう)に迫る闇と同じように。
「婆」
 目の前に白いものが突き出された。
 足を止める。少年がすぐそばにいた。相変わらずの黒ずくめのスタイルだ。一夏をすごして、日焼けは濃くなっているようだ。
「なぜ、泣いている?」
 彼女は首を振り、ティッシュペーパーを受け取った。遊歩道脇の叢に歩を進め、少年に背を向けて、マスクを外し、鼻をかんだ。
「急に胸が苦しくなって」
 ティッシュペーパーをまるめて携帯用のゴミ袋に入れ、しっかりとチャックを閉める。スプレー式の消毒液を手指に噴きつけた。
「救急車を呼ぶ?」
「大丈夫」と彼女は言った。「精神的なものだから」
 そう……。
 少年はつぶやいたけれど、理解している風ではなかった。
「少し休んだ方がいい」
 少年が先導するように草に覆われた土手を下りた。背の高い草の向こうにベンチがある。少年は振り返って、手を振った。うなずき返し、彼女は土手を下り始めた。足下はいつの間にか、明るくなっていた。カラスの鳴き声も聞こえない。闇の気配もなくなった。

プロフィール

川西 蘭(かわにし・らん) 1960年広島県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。79年、大学在学中の19歳のとき『春一番が吹くまで』でデビュー。小説を多数発表したのちに出家。現在は作家と僧侶を兼業している。元東北芸術工科大学教授、現在武蔵野大学教授。著書に『パイレーツによろしく』『夏の少年』『セカンドウィンド』『ひかる汗』など。

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