よみもの・連載

ひかる、汗 魔女の抱擁

魔女の抱擁

川西 蘭Ran Kawanishi

 朝露に濡れた座面を少年はティッシュペーパーで拭いてくれた。
「冷や水は?」
 持っている。答える前に、少年がリュックのサイドポケットから水筒を引き抜いてくれた。中に入っているのは白湯(さゆ)だ。冷や水ではない。コップ代わりの蓋に注ぐと、湯気が立つ。珍しそうに少年はそれを見守っていた。
「お白湯」
「なに?」
「水を温めたもの」一口すすった。「魔法をかけたわけではない」
 ふん、と少年は鼻を鳴らした。「それくらいは知っている」
「飲む?」
 いらない、と首を振った。
 彼女がベンチの座面を右手で軽くたたくと、少年は素直に腰を下ろした。今日は時間に余裕があるようだ。すぐに歩き出す素振りを見せない。
 しばらくベンチに並んで、川を眺めていた。夜明けの陽光が水面をオレンジ色に染めている。脚の長い鳥が水の中から飛び立ち、二人の頭上で優雅に旋回して、山の方に去っていった。
「進んでいる?」
 タブレットを取り出して、少年が訊いた。
「少しずつ」
 実際、あまり進展はない。モンスターと闘うことや捕獲することに熱中できないせいだ。ゲーム部分はコンピュータに任せきりにしている。家を出る時にゲームの開始ボタンをタップするけれど、途中で気にすることはほとんどない。たまに、メッセージの到着を知らせる振動に気づいて、スマホの画面を確認ついでにゲームの進捗状況を把握する程度だ。帰宅するまで一度もスマホに触れないことも珍しくない。自分にとってスマホは必需品ではないのだと思う。
「勇者は?」
「その呼び方は嫌いだ」
 タブレットの画面を消し、リュックに突っ込んだ。
「君は何者なの?」
 一瞬、少年の表情が強張(こわば)った。ゴーグルとマスクで顔のほとんどが隠されていても表情の変化は伝わってくる。少年は膝の上で両手を組み合わせた。手袋から突き出た指先まで日焼けしていた。
「落ちこぼれのハブられっこ」
 ぽつりと言った。

プロフィール

川西 蘭(かわにし・らん) 1960年広島県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。79年、大学在学中の19歳のとき『春一番が吹くまで』でデビュー。小説を多数発表したのちに出家。現在は作家と僧侶を兼業している。元東北芸術工科大学教授、現在武蔵野大学教授。著書に『パイレーツによろしく』『夏の少年』『セカンドウィンド』『ひかる汗』など。

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