よみもの・連載

ひかる、汗 魔女の抱擁

魔女の抱擁

川西 蘭Ran Kawanishi

 顔を上げると、少年がタブレットを手に目の前に立っていた。ゴーグルのレンズに朝の陽光が映っている。
「婆はどうして歩く?」
 少年が訊いた。
「君は? ゲームのため?」
「ゲームなんてどうでもいい」タブレットを軽くたたいた。「こいつにはGPS機能があるから、母親はいつでもどこでも位置確認ができる。それだけの話」
 少年はタブレットをリュックに押し込んだ。母親は今も少年の位置を確認しているのだろうか? 少年が見知らぬ魔女と話をしているとは思いもしないだろう。スマホやタブレットの画面を通じて得られるものは限られている。
「君が歩くのは、なぜ?」
「時間潰しだ」少年は言った。「歩かないと、退屈で体が爆発しそうになる。婆はなぜ歩く?」
 なぜ、歩く? 自分でもわからない。少なくとも拡張現実のゲームのために歩いているわけではない。それは少年と同じだ。と言って、爆発するだけの力はもう自分にはない。
「歩けるうちは歩いていたいから」
 少年はまっすぐに彼女を見た。肩のあたりに微妙に力が入っている。少年の影がのしかかってくるように感じた。一夏の間に少年の体は一回りくらい大きくなったみたいだ。
「……魔法使いバーバ(mage_baba)」
「なに?」
「泣きそうだ」
 言うと同時に少年は地を蹴った。影が鳥のように空に舞い上がったように見えた。風が吹き抜け、叢がざわめいた。川面にさざ波が立つ。小さな鏡を撒(ま)いたようにきらきらとした光が飛び散った。
 歩けるうちは歩いていたい。
 彼女は立ち上がり、大きく伸びをして、土手を上り、朝の陽光に満ちた遊歩道を一歩一歩確認するように歩き始めた。

プロフィール

川西 蘭(かわにし・らん) 1960年広島県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。79年、大学在学中の19歳のとき『春一番が吹くまで』でデビュー。小説を多数発表したのちに出家。現在は作家と僧侶を兼業している。元東北芸術工科大学教授、現在武蔵野大学教授。著書に『パイレーツによろしく』『夏の少年』『セカンドウィンド』『ひかる汗』など。

Back number