よみもの・連載

ひかる、汗 魔女の抱擁

魔女の抱擁

川西 蘭Ran Kawanishi

     7

 ひとりで寂しくない?
 娘の声が薄闇の向こうから聞こえてくる。雑音がかすかに混じり、少し遅延もあるようだ。
 寂しくはない。あなたは元気なの? 大丈夫?
 娘の返事は聞き取れない。大丈夫、と言っている感じが受話器から伝わってくる。遠い場所にいるのだ、と改めて意識する。娘との間を隔てているのは距離だけではない。娘と充分な時をすごすことができなかった、という悔いが彼女にはあった。娘がまだ幼い頃に仕事に復帰した。これ以上、ブランクがあると、現役に戻れなくなってしまう。危機感は強かった。娘は愛(いと)おしい。けれど、娘のために自分の人生を犠牲にしたくはなかった。
 娘は早々に自立し、彼女から離れていった。娘は遠い地でひとりたくましく生きている。そのことを彼女は誇らしく思う。今さらそばにいて欲しいとも思わないし、寂しいと言う気にもなれない。
 お母さん、と娘は彼女を呼んだ。私、また結婚するかもしれない。
 おめでとう。
 ありがとう。でも、また失敗するんじゃないかと不安なの。
 そんなこと、考えても仕方がないと思わない?
 そうだけど、今度は添い遂げたいな、と思っていて……おふたりみたいに。
 私たち? ぎょっとした。どこからそんな勘違いが生まれるのだろう? 私たちはただ一緒にいるだけの夫婦だった。愛情があった時期などない。生活を維持するのに手一杯で、離婚を切り出す余力がなかったからだ。惰性で続けた結婚生活。娘は最初から破綻していた家庭に生まれ育ったのだ。
 いろんなことがあったにしても、添い遂げられたのはすごいことだと思うよ。
 なにもなかったのよ、と彼女は言った。胸の奥が痛んだ。なにもなかった。夫は空気のような存在で、なにかを起こす気にもなれなかっただけだ。
 続けられるだけで私はいい。
 娘は静かな声で言った。
 そう思っている間にさっさと結婚してしまいなさい。
 最後は説教めいた口調になった。受話器を置いて、彼女は大きな息を吐いた。体の中の空洞の、奥の奥に横たわる闇が蠢く。床に両膝をつき、顔を両手で覆った。わずかに開いた口から闇の底から湧き上がってきた熱気が流れ出る。自分が泣いているのだと、掌(てのひら)に涙を感じるまで気がつかなかった。

 少年は黒ずくめの勇者スタイルで大きなスーツケースを運んでいた。これから旅に出る。肩にかけた黒いリュックを揺すって見せた。
 魔物を狩りに?
 そういうの、面白いと本気で思ってる?
 勇者フジヤマ、元気で。世界はあなたが思っているよりずっと広い。きっと良い出会いがある。
 魔法使いバーバ、と少年は爽やかな笑みを浮かべた。ありがとう。いい夢を見るんだよ。

 自分はまだ夢を見ているのだろうか?
 目を開けたはずなのに、見えるのは深い闇だった。
 闇はゆっくりと蠢き、収縮を続けている。邪悪なものが闇と一体になっている。身動きもできず、闇を見つめ続ける。収縮が止まれば、次の瞬間、闇は凶暴な牙を剥いて、襲いかかってくるだろう。鼻から息を吸い込み、下腹に力を込める。恐怖は感じるけれど、パニックになる予感はない。いつもより冷静に対応できている。それは勇者と探索の冒険のおかげかもしれない。闇が収縮を止めた。空間が凝固し、時の流れも停止する。一瞬の間。素早く息を吸って身構えた。闇は蠢動(しゅんどう)し、大きな手となって伸びてくる。尖った爪が銀色の光を放つ。もう逃げない。両手を大きく拡げた。迫りくる闇を、彼女はしっかりと受け止め、力の限り抱き締める。

プロフィール

川西 蘭(かわにし・らん) 1960年広島県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。79年、大学在学中の19歳のとき『春一番が吹くまで』でデビュー。小説を多数発表したのちに出家。現在は作家と僧侶を兼業している。元東北芸術工科大学教授、現在武蔵野大学教授。著書に『パイレーツによろしく』『夏の少年』『セカンドウィンド』『ひかる汗』など。

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