よみもの・連載

今日も、日本語学校で

第3回「日本人だから教えられると思ってた
     〜〜日本語教師になるまで」

北村浩子Hiroko Kitamura

 昼ご飯を食べる時間がないため、買っておいたパンを学校のロビーで齧(かじ)ってから授業に出る。クラスの人数は20人ほど。うとうとすると目立ってしまうので、腕をつねって必死で目を開けた。
 会社を定年退職した男性、親を介護している女性、フリーター男子、主婦、就職したもののしっくりこなかったという女子。真面目にノートを取る人もいれば、のんびりした表情で、腕組みをして講義を聞いている人もいる。服装も雰囲気も重なるところのない20代から60代までの仲間たちを、切迫感の有無が柔らかく分けていた。
 テキスト、レジュメ、資料を保管するファイル、科目ごとのノート。荷物がどんどん重くなるにつれ、後悔や不安が「しなければならないこと」の後ろに押しやられていく。気持ちと身体のリズムが整ってきたのは、2カ月が過ぎた頃だった。ちんぷんかんぷんだったカリキュラムの内容が、少しずつ面白く思えるようになってきたのだ。
 言語習得論の授業では、「子どもは周りの大人の言葉を聞いて覚えるのだから、シャワーのように外国語を浴びていれば自然に口から出てくるようになる」という理屈がなぜ間違っているのか分かったし、社会言語学では、方言は「言語の体系」であり、個々の表現や語彙のことは「俚言(りげん)」というのだということ(たとえば「おおきに」は、関西方言の中の俚言であるということ)などを知った。毎日頭の中で何度も「へええ」と言った。勉強とは「へええ」が増えることなのだな、と大人になって初めて気付いた。中国の、ある地方の「文字のない言語」を学習者となって教わるという授業では、習う側にどれだけ集中力が要求されるのか、どれだけ疲れるのか身を以(もっ)て体感した。
 知らなかったことを知るのは快感だったし、考えるのは楽しかった。特に面白かったのは類義語分析の授業だ。ミニスカートにハイヒール、長い髪の50代くらいのA講師の講義は、毎回ユニークで、待ち遠しかった。
「となり」と「横」、「あがる」と「のぼる」、「ありがとうございます」と「ありがとうございました」、「用事があります」と「用事があるんです」──類似語の用例をできるだけ書き出して、どこに差異があるのかグループでじっくりディスカッションし、発表する。人によって言葉の感覚は違うこと、似ている言葉も厳密には必ず異なっているはずであること、類義語の考察は、自分が普段どのようにその言葉を使っているかを内省できる作業であることを示したうえで、A講師は言った。
「だからこそ言葉は多様性を表現できるのです」
 頷(うなず)かずにはいられなかった。