よみもの・連載

葬儀屋(アンダーテイカー)

第三話 諜報(アンダーカバー)〈前〉

黒木あるじAruji Kuroki


 子供のころ、『蜘蛛(くも)の糸』という絵本を読んだ記憶がある。
 地獄に落ちた男がお釈迦(しゃか)さまの垂らす蜘蛛の糸にすがりつき極楽まで登っていく、そんな物語だった──はずだ。なにせ幼い時分のこと、なぜお釈迦さまが蜘蛛の糸など持っていたのかも、男が最後にどうなったのかも憶(おぼ)えていない。
 筋書きどころか、その存在自体すっかり忘れていた話。それを唐突に思いだしたのは、自分がいま〈蜘蛛の糸〉を登っているからだ。
 もっとも──俺がすがっている糸の先には極楽などないのだが。
 倉庫を改装した道場。その天井から垂れ下がる長さ十メートルほどのロープを、俺は懸命に登っている。もちろん遊んでいるわけではない。国内屈指のプロレス団体《ネオ・ジパング》で昔から受け継がれているトレーニング、格好になぞらえて〈ターザン〉と呼ばれるメニューだ。太く編みこまれた縄を腕の力だけで登りきり、天井まで辿(たど)りついたら再び腕力のみでゆっくり降下してくる。そんな上下運動を十回ワンセット、合計で二十セットおこなう。これによって背筋と上腕筋が鍛えられ、リングで相手と組みあった際に引きこむ力が養われる。きわめて効果的な鍛錬だが、そのぶん代償も大きかった。
 当然ながら〈ターザン〉をおこなう際に手袋をつけることなど許されていない。結果、俺のような新弟子は掌(てのひら)の皮がずるりと剥(む)け、ワンセットを終えるころにはピンク色の肉が露出してしまう。それでも痛みに耐えながら続けていると、やがて滲(にじ)む血がロープを濡らし、握った手がぬるぬると滑りはじめる。十メートルほど真下には冷たいコンクリート、うっかり落ちようものなら大怪我(おおけが)をしかねない。現に真下の床には〈なにか〉を拭いた痕跡がうっすらと見える。力尽きてコンクリに叩(たた)きつけられた人間が居るのか──その瞬間を想像し、思わず上腕に力がこもった。痛みを堪(こら)えながら歯を食いしばり、縄の目に爪を立てて必死でしがみつく──不様な姿だが、誰にも笑われる心配がないのだけは幸いだった。
 ほかの選手がとうに帰った午前一時の道場で、俺はひとり黙々とトレーニングに勤(いそ)しんでいた。いまなお練習生の身に留まっている自分を鼓舞し、一日も早くデビューするための修練である。
 おい、嘘(うそ)をつくなよ梶本誠(かじもとまこと)──。
 心のなかで、もうひとりの俺が嗤(わら)う。思わず「うるせえな」と呟(つぶや)いた。
 殊勝な気持ちからの自己鍛錬ではないことなど、自分がいちばん良くわかっている。ひたすら蜘蛛の糸を登っているのは、迷いを吹き飛ばしたいからだ。悩みを打ち消したいからだ。これほどまでに迷い、悩み、気持ちが沈んでいる理由──明白だった。
〈レスラー襲撃事件〉が、心に暗い影を落としているのだ。

プロフィール

黒木あるじ(くろき・あるじ) 1976年青森県生まれ。東北芸術工科大学卒。2009年『おまもり』で第7回ビーケーワン怪談大賞・佳作を受賞。同年『ささやき』で第1回『幽』怪談実話コンテストブンまわし賞を受賞、10年『怪談実話 震(ふるえ)』でデビュー。実話怪談の分野で活躍し、多大な支持を得る。17年「小説すばる」誌にプロレス小説「掃除屋」を発表、一般小説の分野へ活動の幅を広げる。同作は19年7月に『掃除屋 プロレス始末伝』として集英社文庫より刊行され話題に。他の著書に「怪談実話」シリーズ、「実録怪談」シリーズ、『黒木魔奇録』など。

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