連載
明治維新直前に死んだ男たち
第二章 十津川村と明治維新 西村京太郎 Kyotaro Nishimura

「一八五〇年代、嘉永とか安政とかの時代です。その頃になると幕府の力も弱くなりますし、アメリカ、フランス、イギリス、ロシアなどの艦隊が、通商を求めて、日本にやって来ます。しかし、力の弱くなった幕府には、打ち払うこともできないが、同時に通商条約を、結ぶこともできません。当時の孝明天皇は、大の外国嫌いですから、幕府に向かって、やって来た黒船は全て打ち払ってしまえと命じました。攘夷です。幕府には、それができないのです。外国の艦隊と戦ったら、負けるに、決まっていますからね。各藩に、勤皇の志士が現れて、脱藩して京都に、集まってきます。彼らが叫んだのは、尊王攘夷です。つまり、天皇をいただいて、外国船を打ち払おうということなのですが、冷静に考えれば、これだってうまくいくはずがありません。その上、彼らは脱藩して、京都に来ているので、個人的には魅力のある勤皇の志士なのですが、力はありません。そこで目をつけたのが、京都に近い十津川の郷士です。昔から勤皇の志が強いし、何しろ命令すれば、一〇〇〇人から一五〇〇人もの郷士がすぐ集まって、戦闘集団ができるのですからね。そこで、脱藩した勤皇の志士たちはどうしたか? 全員が十津川村にやって来て、十津川の人々を駆り立てたんですよ。一種のアジテーターですかね。日本は、大変なことになっている。それなのに、幕府は何もできない。だから、全員で京都に上っていって、天皇をかつぎ、外国船を打ち払おうではないかと、檄を飛ばしたんです。その時に彼らが使ったのが『太平記』という戦記ものだったといわれています。『太平記』は、南北朝の時代の戦闘の話ですが、そこには当然、南朝に味方した十津川郷士たちが出てきます。その頃、十津川藩の中では、その『太平記』がベストセラーになって、十津川の若者たちは争うようにして、その本を読んだといわれています。つまり、勤皇の志士たちのアジが成功したんです。その頃は、すでに十津川郷士の三〇〇人余りが京都に交代で行って、天皇の御所を守っていました。アジテーターの中には、有名な人として、梅田雲浜がいました。雲浜は若狭小浜藩の脱藩者で、いち早く十津川村に目をつけ、京都からやって来て、盛んに十津川郷士の若者たちをアジっていたわけです。しかし、それが一時的に大敗します。というのは、井伊直弼が大老職に就き、安政の大獄が始まるからです。とにかく、勤皇の志士たちや勤皇を叫ぶ水戸藩や長州藩、あるいは薩摩藩の藩士たちを次々に押さえつけ、志士たちを投獄していったからです。その中には水戸藩士もいたし、薩摩の島津藩士もいました。個人的な勤皇の志士たちの中には、佐久間象山とか吉田松陰とかがいたわけですよ。今いったアジテーターの梅田雲浜も、この安政の大獄で逮捕され死んでいます。それで、一時的に尊王攘夷の声は鎮まったのですが、その後、水戸藩士が桜田門で井伊大老を殺害します。途端に、今度は勤皇の志士と呼ばれる人たちが、逆に幕府方の、いわゆる佐幕派の人たちを次々に襲います。特に京都では、その惨劇が多かった。これが、いわゆる天誅騒ぎです。要するに、『天誅』と叫んで、勤皇の志士たちが幕府の味方をする人たちを殺していくのです。そのため、京都の町は、血なまぐさい騒乱の町に変わってしまったのです。その頃は、殺しを請け負うような有名な勤皇の志士も生まれました。いわば殺し屋のような人間が、出てくるわけですよ。肥後の河上彦斎、薩摩の田中新兵衛、土佐の岡田以蔵、いってみればテロ集団ですが、時代から見れば勤皇のために戦った侍ということができますが、こうしたテロの嵐は、当時京都に吹きすさんでいて、文久元年から三年(一八六一〜六三年)までに九七件の殺人があり、元治元年、一八六四年は三八件、慶応元年から三年(一八六五年から一八六七年)までが二六件、合計一六一件のテロが、京都では発生しているのです」



〈プロフィール〉
西村京太郎(にしむら・きょうたろう)
1930年東京生まれ。63年にオール讀物推理小説新人賞、65年に『天使の傷痕』で江戸川乱歩賞、81年『終着駅殺人事件』で日本推理作家協会賞、2004年には日本ミステリー文学大賞を受賞。鉄道ミステリーの第一人者。
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第七章 若き志士と現代の若者たち(最終回)
第六章 『奇は貴なり』の終章2
第六章 『奇は貴なり』の終章
第五章 『奇は貴なり』の続きと事件2
第五章 『奇は貴なり』の続きと事件
第四章 小説『奇は貴なり』のつづき2
第四章 小説『奇は貴なり』のつづき
第三章 奇は貴なり2
第三章 奇は貴なり
第二章 十津川村と明治維新2
第二章 十津川村と明治維新
第一章 中井庄五郎を知っていますか2
第一章 中井庄五郎を知っていますか