連載
明治維新直前に死んだ男たち
第三章 奇は貴なり 西村京太郎 Kyotaro Nishimura

 野崎主計(野崎正盛)通称主計(かずく)は、幕末の十津川を代表する勤皇の志士の一人である。
 一八六三年八月、倒幕ののろしを上げた天誅組が、十津川郷に援兵を求めた際、主計は、天誅組の総裁、吉村虎太郎の呼びかけに応じ、一軍を率いて参加し、各地で戦った。やがて政変が起き、天誅組は、官軍から突然、賊軍になった。
 この時、主計は、その責任を感じ、遺書を残して自刃した。四十歳。
 辞世、「討つ人も討たるる人も心せよ。同じ御国の御民なりせば」

 野崎主計の死後五年、維新の大業がなり、天誅組は義賊と称されることになった。
 野崎主計の碑は、十津川村のユースホステルの庭に建てられている。
 十津川の郷士ではないが、天誅組の参謀として十津川に来て、十津川の郷士たちの指揮を執った、伴林光平の歌碑もある。河内の人である。
 その後、天誅組は、幕府軍によって壊滅させられ、伴林光平は、河内の国境で捕らえられ、一八六四年、京都六角の獄中で死んだ。五十二歳。
 十津川村の中に、彼の歌碑が、建っている。「世を捨てて、くまばや汲まん白菊の花の中ゆく滝川の水」これは歌人でもあった伴林光平が残した歌碑である。
 深瀬繁理、天誅組の挙兵に応じて、野崎主計とともに郷士を率いて参加、各地に転戦した。
 その後、天誅組への義理を重んじて、天誅組の志士たちの脱出を助けていたため、幕府軍に捕らえられ、白川の河原で斬首された。時に三十七歳。
 辞世「化野(あだしの)の露と消えゆくもののふの都に残す大和魂」
 現在、深瀬繁理の碑が深瀬家の墓地と郵便局の横に建てられている。
 また、天誅組の挙兵に応じるように呼びかけがあったが、参加を断ったために、参加した十津川郷士たちによって裏切り者として、斬られた人もいる。
 例えば、一八六三年、天誅組の変に際して、十津川郷士は援兵を求められ、一五〇〇人がそれに応じたが、玉堀為之進は、慎重論を唱えたため、裏切り者として仲間の十津川郷士たちによって捕らえられ、斬首された。
 玉堀為之進は当時、村の庄屋だった。結果的に彼の慎重論は正しかったのだが、多くの郷士たちが参加した時、それに、慎重論を唱えた玉堀為之進は、同志によって、裏切り者とされたのである。時に五十三歳。辞世は、国王神社の本殿前に石灯籠と墓碑が作られている。
辞世「国のため仇なす心なきものを仇となりしは恨みなりける」

 天誅組の乱などを生き延びて、その後、戊辰戦争で、長岡藩と戦った郷士もいる。
 藤井織之助は、一八六三年頃は京都で勤皇運動に力を尽くしていたが、戊辰戦争の時は十津川御親兵第一番中隊司令官補助として北越に出兵している。長岡城の攻撃に際して腹部に銃弾を受け、回復の望みのないことを知って自刃している。四十二歳。
 中井庄五郎よりも一歳若い一八四八年生まれの前田隆禮がいる。天誅組の乱の時は十六歳である。したがって、天誅組の乱には関係していないが、彼は明治維新の後、薩摩藩で現代戦争の戦い方を勉強し、戊辰戦争に参加し、さらに西南の役、日清戦争と戦って陸軍少将になり、日露戦争では旅順の攻撃に参加。最後は陸軍中将になって一九〇五年、明治三八年、五十七歳で亡くなっている。



〈プロフィール〉
西村京太郎(にしむら・きょうたろう)
1930年東京生まれ。63年にオール讀物推理小説新人賞、65年に『天使の傷痕』で江戸川乱歩賞、81年『終着駅殺人事件』で日本推理作家協会賞、2004年には日本ミステリー文学大賞を受賞。鉄道ミステリーの第一人者。
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第七章 若き志士と現代の若者たち(最終回)
第六章 『奇は貴なり』の終章2
第六章 『奇は貴なり』の終章
第五章 『奇は貴なり』の続きと事件2
第五章 『奇は貴なり』の続きと事件
第四章 小説『奇は貴なり』のつづき2
第四章 小説『奇は貴なり』のつづき
第三章 奇は貴なり2
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第二章 十津川村と明治維新2
第二章 十津川村と明治維新
第一章 中井庄五郎を知っていますか2
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