連載
明治維新直前に死んだ男たち
第三章 奇は貴なり 西村京太郎 Kyotaro Nishimura

 十津川は、もう一人、中村修という名前を、手帳に書き加えた。
 彼は一九一九年、大正八年の生まれだから、天誅組とも明治維新とも関係がない。十津川が、中村の名前を、手帳に書き加えたのは、太平洋戦争で海軍の神風特別攻撃隊第五金剛隊に参加し、昭和一九年一二月一四日、フィリピンで出撃し、二十五歳で死んでいるからである。
 つまり、十津川村の人たちは、南北朝時代、幕末時代、そして、太平洋戦争の時も国のために戦い続けてきたということを記憶しておきたかったからである。
 しかし、天誅組の乱をいくら調べても、中井庄五郎の名前は、出てこない。おそらく、この時、中井庄五郎は京都にいて、御所の護衛をする二〇〇名の中に入っていて、天誅組の乱には、参加しなかったからだろう。
 その後、庄五郎の名前が出てくるのは、慶応元年三月である。この時、庄五郎は、京都から十津川村に帰っていた。
 何をやっていたのかは定かではない。ここで庄五郎に関係してくる二人の名前がある。いずれも土佐藩を出奔した勤皇の浪士で、田中顕助と那須盛馬の二人である。
 その頃、京都には、有名無名の勤皇の志士たちがたくさんいた。彼らの多くが京都にあった薩摩藩邸に、出入りしていた。
 当時、薩摩藩邸にいた西郷吉之助は、彼らを篤くもてなしていた。いつか、こうした勤皇の志士たちが役に立つ時が来ると考えていたふしがある。
 その中に、土佐藩出身の田中顕助と那須盛馬もいたのである。
 他に土佐藩の出身者としては中岡慎太郎とか、坂本龍馬が有名だが、他に水戸藩の浪人や紀州藩の浪人などが多かった。
 この時、京都の薩摩藩邸には西郷吉之助の他、大久保利通や小松帯刀(こまつたてわき)もいたが、こうした勤皇の志士たちの接待をしていたのは、主として西郷吉之助だった。
 その後、西郷吉之助の動きを見ていると、こうした各藩の脱藩者を篤くもてなしていた理由が分かってくる。西郷は、実力で幕府を倒す討幕派のリーダーで、そのためには、幕府方から戦いを仕掛けさせる必要があると考え、江戸にあった薩摩屋敷に、京都で関係を保っていた勤皇の浪士たちを集めて、江戸の市中で火を付けたり、強盗を働かせたりして、江戸の市中を騒がせ、幕府方で市中取り締まりに当たっていた庄内藩に、薩摩屋敷を焼き討ちさせた。それを引き出したのが西郷で、その報を聞いて、西郷が手を叩いて喜んだという話もある。
 こうした西郷の計画に乗って、薩摩藩邸に出入りしていたのが、土佐を脱藩した土佐浪人、田中顕助と、那須盛馬の二人である。
 年長者の田中顕助は、明治維新の後、田中光顕と名前を変えて、その後、宮内大臣を務め、最後には、伯爵にもなった。
 その頃、田中顕助は、浜田辰弥という偽名を使い、若い那須盛馬と示し合わせて土佐藩を脱藩。幕府の長州征伐を妨害しようとして計画を立てたが、一八六五年の正月、隠れ家を、新撰組に襲われた。幸い、この時の会合に出ていなかった田中顕助と、那須盛馬の二人は、危うく助かったが、新撰組の襲撃を恐れて、十津川に、逃げ込んだ。
 二人は十津川村の文武館に落ち着き、十津川郷士たちに、田中は、歴史を、那須は剣術を教えていたが、その後、十津川に潜伏していることを幕府方に知られてしまい、幕府の捕り方たちが十津川村にやって来たので、二人はやむなく、また逃げることになった。



〈プロフィール〉
西村京太郎(にしむら・きょうたろう)
1930年東京生まれ。63年にオール讀物推理小説新人賞、65年に『天使の傷痕』で江戸川乱歩賞、81年『終着駅殺人事件』で日本推理作家協会賞、2004年には日本ミステリー文学大賞を受賞。鉄道ミステリーの第一人者。
Back number
第七章 若き志士と現代の若者たち(最終回)
第六章 『奇は貴なり』の終章2
第六章 『奇は貴なり』の終章
第五章 『奇は貴なり』の続きと事件2
第五章 『奇は貴なり』の続きと事件
第四章 小説『奇は貴なり』のつづき2
第四章 小説『奇は貴なり』のつづき
第三章 奇は貴なり2
第三章 奇は貴なり
第二章 十津川村と明治維新2
第二章 十津川村と明治維新
第一章 中井庄五郎を知っていますか2
第一章 中井庄五郎を知っていますか