連載
明治維新直前に死んだ男たち
第三章 奇は貴なり 西村京太郎 Kyotaro Nishimura

 田中が頼ったのは、十津川郷士の、田中主馬蔵のところである。
 田中主馬蔵は、十津川では土地の名士で、二人を山小屋に匿ったが、田中のほうは顔を知られているので、さらに紀州の山荘に逃げた。そこで匿ってくれたのは、田中主馬蔵の義兄の千葉慶次郎だった。
 ここで、中井庄五郎の名前が出てくる。那須盛馬のほうは、田中顕助ほど顔を知られてはいないので、京都に戻る決心をし、その頃、上京することになっていた、中井庄五郎と二人で、那須も、十津川郷士ということにして、京都に出ていった。それが慶応元年三月のことである。
 京都に出た二人は、連れ立って市中をよく闊歩し、飲み歩いていたといわれている。
 京都は、当時、勤皇・佐幕の戦場だった。若い二人が、大手を振って、市中を歩く姿が、想像される。
 中井庄五郎は、居合の達人といわれ、那須のほうも、腕に自信があったらしい。三月中旬の夜、四条の高瀬川辺りを酔って歩いていて、三人連れの侍とぶつかった。酔った勢いで斬り合いになった。
 ところが、この三人が新撰組の沖田総司、斎藤一、永倉新八という、いずれも剣の達人だった。それに、二人と三人である。中井庄五郎も那須盛馬も劣勢になり、那須のほうは、左肩と左足に重い傷を負って、その場を逃れた。
 この時、中井庄五郎が傷を負ったという記録はないから、那須よりもはるかに腕の立つ庄五郎のほうは、無事に、逃げたのだろう。
 新撰組が調べたところ、那須は、手配中の土佐の浪士だということが分かった。新撰組の探索を知り那須は慌てて、再び十津川村に逃げ込んだ。
 この時、那須は、新撰組に追われているので、無事に、十津川村に逃げ込めるかどうか分からないので、京都御所の警護に当たっていた十津川の郷士たちが、薩摩の西郷に相談したという。
 その時、西郷は、役に立つ人物なら薩摩藩が助けましょう、といって、那須を片岡源馬と改名させ、薩摩藩士、片岡源馬として十津川郷に、剣術の指南に行くという名目で送り出したといわれている。
 十津川郷に逃れてきた片岡源馬こと那須盛馬は、四月まで十津川郷の温泉に隠れて傷を癒した。
 一方、紀州に逃れていた田中顕助は、土佐藩を同じように脱藩した浪士、中岡慎太郎と連絡を取っていた。
 二人が考えていたのは、現在の京都は公武合体派が、力を持っている。土佐藩としては、このままでは、討幕は、おぼつかない。どうしても薩摩と長州の連合が必要だと考え、田中顕助は、中岡慎太郎と手を組んで、薩摩と、長州の両藩の説得に当たることになった。
 坂本龍馬が、薩長連合を唱えて働くようになるのは、この八カ月後だから、薩長連合の旗振りは、田中顕助と中岡慎太郎の二人のほうが早かったことになる。
 そこで、田中顕助は中岡慎太郎とともに、長州に行き、そこで、薩長連合の運動を始めることになる。この時、薩摩は、薩長連合を望んではいたが、八・一八での薩摩の裏切りを経験した長州は、薩摩との連合に、頭から反対していた。もっとも反薩摩の感情が強かったのは、高杉晋作、桂小五郎たちの奇兵隊だった。
 そのため、中岡慎太郎たちは、田中顕助と片岡源馬の二人に、奇兵隊の説得に、当たらせることにした。特に年長者の田中顕助は、その後、伯爵にもなった男で、弁舌が立った。その弁舌の冴えを、坂本龍馬や中岡慎太郎が買って、重用したに違いない。



〈プロフィール〉
西村京太郎(にしむら・きょうたろう)
1930年東京生まれ。63年にオール讀物推理小説新人賞、65年に『天使の傷痕』で江戸川乱歩賞、81年『終着駅殺人事件』で日本推理作家協会賞、2004年には日本ミステリー文学大賞を受賞。鉄道ミステリーの第一人者。
Back number
第七章 若き志士と現代の若者たち(最終回)
第六章 『奇は貴なり』の終章2
第六章 『奇は貴なり』の終章
第五章 『奇は貴なり』の続きと事件2
第五章 『奇は貴なり』の続きと事件
第四章 小説『奇は貴なり』のつづき2
第四章 小説『奇は貴なり』のつづき
第三章 奇は貴なり2
第三章 奇は貴なり
第二章 十津川村と明治維新2
第二章 十津川村と明治維新
第一章 中井庄五郎を知っていますか2
第一章 中井庄五郎を知っていますか