連載
明治維新直前に死んだ男たち
第三章 奇は貴なり2 西村京太郎 Kyotaro Nishimura



 十津川は、読み始めた。
「奇は貴なり」梶本文也・木下恵
 中野正五郎がようやく歩き出した時、母は、その様子を見て、
「醜し」
 と、いって、泣いた。
 父親は、二歳の正五郎の右手が左手よりも長いことに気がついて、はっきりと、いった。
「この子に剣道は無理だ」
 剣の基本である正眼の構えができないと判断したからである。
 五歳になると、右手が左手よりも長いことが、いよいよ、はっきりしてきた。父親は、十津川郷の名士といわれる上杉長治に占ってもらった。
 上杉長治は、正五郎が歩く姿をしばらく見てから、いった。
「奇は貴なり」
 最初、父親も母親も、その言葉が何を意味するのかが、分からなかった。そこでもう一度、父親が聞いたところ、上杉長治が、再び同じことをいった。
「奇は貴なり」
 更に、筆を取り、ふすまにその言葉をいっきに書きつけて、
「きなりのきは奇、もう一つのきは貴だ。この子は将来、類まれな、天才になる」
 上杉長治は、ふすまに書いた言葉を、もう一度、筆でなぞって見せた。
 しかし、父親にも母親にも、その言葉が理解できなかった。
 一〇歳になると、正五郎の右腕はますます長くなり、父親が危惧したように、木刀を持たせても、正眼の構えができなかった。不格好な半身の構えになってしまうのである。
 そこで、父親はしばらくの間、正五郎に木刀を持たせなかった。正五郎は別に、反抗もせず、他の少年たちが、木刀を持って戦の真似事などをしていても、うらやましいとも、思わず、ひたすら野山を走り回っていた。
 不格好ではあっても、その足は驚くほどの速さで、正五郎の体を走らせていた。
 一二歳になった時、突然、正五郎は父親に向かって、道場に行き、剣の修業をするといい出し、父親が止めるのも、聞かずに、木刀を持って出かけていった。
 父親は心配になり、正五郎の跡をそっとつけ、川添にある小さな道場まで追いかけていった。他の子どもたちは、全て一五、六歳で、誰もが、勢いよく木刀を振るって稽古に励んでいた。
 一方、正五郎はというと、道場の隅で木刀を持って、正座している。道場主は、あの上杉長治である。上杉が、
「これから試合をやる」
 と、いい、今まで、正座を続けていた正五郎を呼んだ。
 正五郎は、右手に木刀を持ち、道場の中央に進んできた。上杉長治が次に指名したのは、背の高い、正五郎より三歳年上の一五歳の少年だった。
 彼が、道場では、第一番の木刀の使い手といわれているほどの、実力者であることを、父親は知っていた。
「構えて」
 と、道場主の上杉が、叫び、正五郎と一五歳の少年は向かい合った。
 一五歳の少年は、木刀をゆっくりと正眼に構えている。それに対して、正五郎のほうは、短い左手に木刀を持ち、腰に差している形である。
 正五郎の父親は落胆した。これでは正五郎が、負けるに決まっている。
 一五歳の少年は正眼の構えから、まっすぐ振りかぶり、次に正五郎の面に向かって振り下ろされるのは、はっきりしていた。腰に木刀を押しつけたままでは、それを、防ぐことはできない。
 そう思った瞬間、一五歳の少年は、裂帛の気合とともに木刀を振り下ろした。次の瞬間、何が起きたのか、正五郎の父親にも分からなかった。
 上段から真っ向微塵と振り下ろした一五歳の少年の体が、弾き飛ばされて、道場の羽目板にぶつかって倒れていたからである。
 正五郎のほうを見ると、長い右手で木刀を横に払っただけだった。



 
〈プロフィール〉
西村京太郎(にしむら・きょうたろう)
1930年東京生まれ。63年にオール讀物推理小説新人賞、65年に『天使の傷痕』で江戸川乱歩賞、81年『終着駅殺人事件』で日本推理作家協会賞、2004年には日本ミステリー文学大賞を受賞。鉄道ミステリーの第一人者。
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第六章 『奇は貴なり』の終章
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第三章 奇は貴なり2
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