連載
明治維新直前に死んだ男たち
第三章 奇は貴なり3 西村京太郎 Kyotaro Nishimura

 庄五郎は、十五歳になった。彼の剣は、ますます鋭さを増し、
「十津川郷一の剣の達人」
 と、噂された。剣の達人ではあったが、学問のほうは、どうだったのか。これが、はっきりしない。
 と、いうよりも、当時の十津川郷には、いわゆる藩校と呼べるものが無かった。
 当時、有力な藩には必ず藩校があって、藩士は必ず、そこで勉強をした。肥後は時習館、水戸は弘道館、長州は明倫館、薩摩は造士館、会津は日新館である。
 十津川郷に、初めてそれらしい学問所が出来たのは、一八六四年、文久四年の二月である。それが文武館と呼ばれた。
 この時、庄五郎は十八歳だが、その前年の十七歳の時、一八六三年、彼は十津川郷の有力者である上平主税に連れられて、初めて京都に上るのである。
 これは、勤皇の志の強い十津川郷の人たちが京都の騒乱を心配して、京都御所の警護を願い出て、それが許され、約二〇〇人の郷士を連れて、上平主税が上京したのである。
 庄五郎はその中の一人で、最年少の十七歳であった。したがって、藩校と呼ばれる文武館の開校の一年前である。
 二〇〇人の郷士が、御所警備のために京都に出向いたのだが、その頃、京都御所を守っていたのは会津・長州・薩摩といった大藩だった。
 彼らは、持っている武器も現代的なものだし、服装も素晴らしい。そのうえ、洋式の訓練も受けていた。
 それに比べて、上平主税に率いられた二〇〇人は、人数こそ多かったが、いかにも貧しい十津川郷の郷士らしく、銃は種子島で、装備も貧弱である。服装も貧しい。だから、すぐには京都御所の警護は任せて貰えなかった。天皇を祀る神社の警護とか、宮家の屋敷の警護に回されていた。
 庄五郎も、若者二人と最初は、柳原中納言邸の警護を任されている。そこで、御所のほうは警護が大変だが、宮家のほうはかなりルーズだったと見えて、その警護で緊張したというような話は聞かれなかった。
 それでは、文武館が出来るまで、十津川郷ではどんな学問の教え方をしていたのか。これが、教師たちは全て外から来たかなり有名な勤皇の志士たちなのである。
 その一人が、梅田雲浜だった。
 梅田雲浜は若狭小浜の出身で、維新の代表的な勤皇の志士である。その主張は勤皇倒幕ではなくて、尊王攘夷である。つまり、当時黒船が来航して、神州日本の周辺を荒らしている。その夷狄の軍艦を何としてでも追い払わねばならぬ。その志に燃えて、十津川郷にやって来ては、十津川郷士たちの決起を促していた。
 その時に、梅田雲浜が使った本が「太平記」だった。
 太平記は、後醍醐天皇に始まって、足利尊氏との戦いがあり、後醍醐天皇の皇子、護良親王が尊氏に追われて放浪する。言ってみれば軍記物である。面白く書いてあるが、事実とは違う小説である。
 しかし、十津川郷というところは、その太平記の舞台でもあった土地であり、護良親王は一時期、足利の軍勢に追われて、十津川郷に隠れていたことがある。
 そんなこともあって、梅田雲浜が教科書に使った太平記は、この時、十津川郷ではベストセラーになったと言われている。もちろん四十巻もの大作だから、粗筋を書いたものを配って、その講釈を梅田雲浜がやったのだろう。



 
〈プロフィール〉
西村京太郎(にしむら・きょうたろう)
1930年東京生まれ。63年にオール讀物推理小説新人賞、65年に『天使の傷痕』で江戸川乱歩賞、81年『終着駅殺人事件』で日本推理作家協会賞、2004年には日本ミステリー文学大賞を受賞。鉄道ミステリーの第一人者。
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