よみもの・連載

御茶ノ水署シリーズ

影のない女(前編)

逢坂 剛Gou Ousaka

 梢田威(こずえだたけし)は、斉木斉(さいきひとし)の肘をつついて、ささやいた。
「おい。向かいの女を見てみろ」
 斉木は、いかにもうるさそうに肘を引き、口の隅で言った。
「とっくに見たさ。じろじろ見るんじゃない」
「あんたの好みだろうが。厚化粧に、高く結い上げたあの髪形ときたら、どう見ても昭和のファッションだぜ」
「昭和か。昭和の、いつごろだ」
「まあ、三十年代後半から、四十年代前半てとこだな」
「ばか言うな。まだ、生まれてもいないくせに」
 にべもなく切って捨てられ、梢田はしぶしぶ口をつぐんだ。
 二人が、新規開店したこのバーにはいってから、二十分ほどたっていた。
 十席ほどのカウンターの、コの字形に曲がった両端にそれぞれ二席ずつあり、都合十四席という勘定になる。おなじみの、うなぎの寝床といった長細い店だが、御茶ノ水(おちゃのみず)界隈(かいわい)のバーとしては、広い方だろう。
 ストゥールは背もたれのない、直径三十センチ足らずの厚い円板でできており、あまりすわり心地がよくない。スムーズに回転するせいか、安定感も今一つだ。
 梢田と斉木は、入り口をはいったすぐ手前の端の席に、陣取っていた。長いカウンターは、満席だった。
 見たところ、客は近所で働く勤め人がほとんどで、それぞれ勝手におしゃべりを続け、梢田たちには目も向けない。中に、女も三人ほど交じっており、にぎやかというよりうるさいほどだ。
 梢田たちがはいったとき、問題の女はすでに奥の二席の壁側に一人ですわり、カクテルを飲んでいた。薄手の、オフホワイトのコートを、着たままだった。胸元から、鮮やかなピンクのブラウスが、のぞいている。
 オーナーらしきバーテンは、丸顔で額が広く抜け上がった、五十がらみの男だった。両脇に残った髪をチックで固め、短く刈り込んだ口髭(くちひげ)を生やしている。
 タータンチェックのベストに、蝶ネクタイ。ピンクのシャツの袖をたくし上げて、赤のアームバンドで留めるという、とんだしゃれ者だ。
 もっとも、ずんぐりむっくりの体形のせいで、突き出た腹がカウンターの中を移動するのに、いかにも窮屈そうに見える。
 このバー〈ブライトン〉は、一週間前に開いたばかりだった。
 営業許可の手続きは、御茶ノ水署でキャビネットを挟んだ隣り合わせの、同じ生活安全課の保安一係が、担当したはずだ。

プロフィール

逢坂 剛(おうさか・ごう) 1943年東京生まれ。80年「暗殺者グラナダに死す」で第19回オール讀物推理小説新人賞を受賞。86年に刊行した『カディスの赤い星』で第96回直木賞、第40回日本推理作家協会賞、第5回日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2014年、第17回日本ミステリー文学大賞を受賞。15年『平蔵狩り』で第49回吉川英治文学賞を受賞。「百舌」シリーズ、「御茶ノ水署」シリーズほか著書多数。

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