よみもの・連載

御茶ノ水署シリーズ

影のない女(後編)

逢坂 剛Gou Ousaka

 五時になると、梢田は斉木に声をかけられて、一緒に署を出た。小百合はパソコンを開き、リポートらしきものをまとめていた。
 外はすでに暗く、けっこう風が冷たい。コートを着て来なかったのが、悔やまれるほどだった。
「どこへ行くんだ。晩飯には、ちょっと早いだろう」
 梢田の問いに、斉木がぶっきらぼうに応じる。
「〈ブライトン〉に行くんだ」
 梢田は、足を止めた。
「あの女が、また来るとでも思ってるのか。きのうのきょうだし、ぜったいに来ないぞ」
「そんなことは、分かってる」
 斉木が歩き続けるので、あわてて追いかける。
「それに、まだあいてないぞ。あくのは、早くても六時だろう」
「あく前に行くんだ。あのバーテンを、締め上げてやる」
 明大(めいだい)通りから富士見坂(ふじみざか)にはいり、錦華(きんか)公園を抜けて猿楽(さるがく)通りに出た。
「こんな時間に、来てるかな」
「新規開店して間がないし、早出してるに違いない。まだ来てないようなら、おっつけつぶれるだろう」
 一階の写植屋は、明かりがついていなかった。すでに営業時間が終わったのか、そもそも店をたたんでしまったのか、分からない。
〈ブライトン〉の、妙に凝った厚手の木の扉は、閉じられていた。真鍮(しんちゅう)の取っ手にかかった、〈CLOSED〉の札が見える。
 斉木が言う。
「札が出ているからには、木下は来てるってことだ」
「だれだ、木下って」
「バーテンの名前さ。木下太郎だ。それくらい、おまえがチェックしておくのが筋だぞ」
 例のごとく、斉木は保安一係の担当業務について、常に目を光らせているようだ。
「ゆうべ帰るときに、札を掛けたままなのかもしれないな」
 そう言いながら梢田は、扉の取っ手を引っ張った。すると、鍵はかかっておらず、あっさり開いた。
 ライトは消えたままで、階段は真っ暗だった。最上段の、入り口のドアガラスからも、光は漏れていない。
 斉木はかまわず、階段をのぼり始めた。梢田も手すりにつかまり、慎重にそのあとを追う。
 のぼりきったとき、上部に切られたドアガラスの向こうで、明かりがついた。
 斉木が、無造作にドアを押す。
 カウンターの中で、前夜のバーテンがくるりと振り向いた。
「すみません、まだ準備中で」
 そこで言葉を切り、あらためてこちらを見直す。

プロフィール

逢坂 剛(おうさか・ごう) 1943年東京生まれ。80年「暗殺者グラナダに死す」で第19回オール讀物推理小説新人賞を受賞。86年に刊行した『カディスの赤い星』で第96回直木賞、第40回日本推理作家協会賞、第5回日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2014年、第17回日本ミステリー文学大賞を受賞。15年『平蔵狩り』で第49回吉川英治文学賞を受賞。「百舌」シリーズ、「御茶ノ水署」シリーズほか著書多数。

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