よみもの・連載

御茶ノ水署シリーズ

影のない女(後編)

逢坂 剛Gou Ousaka

「じゃまするぞ。おれたちは、御茶ノ水警察署の者だ。おれは斉木、こっちは梢田。ちょっと、聞きたいことがある」
 斉木が言うと、バーテンは蝶ネクタイを指先でつまみ、くるりと顎を回した。すでに、仕事用の装いに、着替えている。
「それはどうも、お世話さまです。営業許可の手続きは、もうすんでますよ。もちろん、ご存じでしょうが」
 それにかまわず、斉木が続ける。
「あんたの名は、木下太郎といったな」
 バーテンは、ちょっとたじろいだ。
「はい、そうですが」
 そう言って、もう一度顎を回す。
 梢田は、そのあとを引き取った。
「ゆうべ、おれたちがここで飲んだのは、覚えてるだろうな」
「もちろんです。刑事さんとは、存じませんでしたが」
 斉木が奥に、顎をしゃくる。
「そのとき、あっちのカウンターの端に、けばい格好をした女がいただろう」
 前置きなしに突っ込まれて、木下太郎は記憶をたどるように首をかしげ、ぱちぱちとまばたきした。
「ええと、はい、いたと思います」
「名前とか勤め先とか、知ってるか」
「いえ、知りません。ゆうべが初めての、お客さんですし」
 斉木は、じっと木下を見つめた。
「あの女、ゆうべ途中でトイレにはいったきり、出て来なかったよな」
 そう指摘されて、木下はわざとらしく天井を見上げたあと、今度は梢田に目を移した。
「さあ、それはちょっと、気がつきませんでしたが」
 梢田は、口を開いた。
「その女から、勘定をもらったか」
 木下が、またまばたきする。
「ええと、いえ、もらいそこねました。気がつかないうちに、出て行ったみたいで」
 すかさず、斉木が割り込んだ。
「すると、おれがいなくなったのも、気がつかなかったわけか」
 木下は、ちらりと梢田を見た。
「というか、お勘定は梢田さんでしたか、そちらの刑事さんから、まとめていただきましたので、こちらのもうおひとかたは、一足先に出て行かれた、と思いましたが」
 すらすらと、言い抜ける。
 梢田は、カウンターに肘をついて、体を乗り出した。
「とぼけるのも、いいかげんにしとけよ。ここのトイレに、外へ抜け出す隠し戸があることは、お見通しなんだ」
 木下が、芝居がかったしぐさで、のけぞる。
「ま、まさか」

プロフィール

逢坂 剛(おうさか・ごう) 1943年東京生まれ。80年「暗殺者グラナダに死す」で第19回オール讀物推理小説新人賞を受賞。86年に刊行した『カディスの赤い星』で第96回直木賞、第40回日本推理作家協会賞、第5回日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2014年、第17回日本ミステリー文学大賞を受賞。15年『平蔵狩り』で第49回吉川英治文学賞を受賞。「百舌」シリーズ、「御茶ノ水署」シリーズほか著書多数。

Back number