よみもの・連載

御茶ノ水署シリーズ

影のない女(後編)

逢坂 剛Gou Ousaka

 梢田は体を起こし、木下に指を立ててみせた。
「それじゃ、証明してやろう。おれはトイレに行って、三分後にこのドアからもう一度、はいって来る。そうしたら、店中の酒を全部ただで、飲ませるか」
 木下が、薄笑いを浮かべて、うなずく。
「ようがす」
 急に、ようがすと口調が変わったので、梢田はめんくらった。
「よし。あとで、ほえづらかくなよ」
 そう言いつつ、いくらか不安になって、斉木を見る。
 斉木は、おまえに任せると言いたげに、うなずいた。
 梢田は狭い通路を抜け、トイレに行った。
 ドアをあけると、開店前だからか、真っ暗だった。壁を探り、スイッチを押して、ライトをつける。
 便器の後ろの壁に、例の古本まつりの古いポスターが、貼ってある。裏側に、隠し戸のようなものが、あるはずだ。
 梢田は身を乗り出し、ポスターの上からその壁を、押してみた。
 わずかに、へこんだような気もしたが、開きはしなかった。
 床に足を踏ん張り、今度は力を込めて押す。手ざわりや手ごたえから、石膏(せっこう)ボードらしいと分かったが、とにかく壁は開かなかった。
 斉木によれば、その壁を押すと奥に半畳ほどのスペースがあり、外へ抜けるくぐり戸がついている、とのことだった。
 それにしても、肝腎(かんじん)の壁が開かないことには、確かめようがない。さすがに、無理やりたたき割るのは、はばかられた。
 どこかに取っ手か、隠しボタンがあるのではないかと、あちこち指先で探り回ったが、見つからなかった。焦ったせいで、ひたいに汗が噴き出す。
 それを手の甲でぬぐい、梢田はトイレを出た。
 カウンターにもどると、水割りらしいグラスが二つ出され、そのうちの一つを斉木が飲んでいた。
 斉木が梢田を見て、どうした、という顔をする。
「あんたが行って、確かめてくれ。おれが調べても、見つかりそうにない」
 仏頂づらで言うと、斉木は少し考えてからストゥールをおり、黙ってトイレに行った。
 梢田は、代わってストゥールによじのぼり、木下を見た。
「なんだ、このグラスは」
 木下が、きざに肩をすくめる。
「ただの水割りですよ。ご挨拶がわりに、どうぞ」
「酒はなんだ。バランタインの、三十年ものか」
 知っているうちで、いちばん高いウイスキーの名を出すと、木下はにっと笑った。
「そういうお酒は、水割りには向かないんですよ、お客さん」
 こばかにしたような口調に、かりかりする。
 刑事と知りながら、ぬけぬけとお客さんなどと呼ぶのは、どういう了見だ。
 梢田は気分を害して、がぶりと一口飲んだ。
 前夜と違って、やけに濃い水割りだったので、むせそうになる。
 咳払(せきばら)いをしたとき、斉木がもどって来た。

プロフィール

逢坂 剛(おうさか・ごう) 1943年東京生まれ。80年「暗殺者グラナダに死す」で第19回オール讀物推理小説新人賞を受賞。86年に刊行した『カディスの赤い星』で第96回直木賞、第40回日本推理作家協会賞、第5回日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2014年、第17回日本ミステリー文学大賞を受賞。15年『平蔵狩り』で第49回吉川英治文学賞を受賞。「百舌」シリーズ、「御茶ノ水署」シリーズほか著書多数。

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