よみもの・連載

御茶ノ水署シリーズ

影のない女(後編)

逢坂 剛Gou Ousaka

 梢田が黙り込むと、斉木は口を開いた。
「いちおう、この一件は保安一係に、報告しておくからな」
 むろん、単なる威(おど)しだ。
 木下は何も言わずに、肩をすくめるようなしぐさをした。
 梢田は名刺を取り出し、カウンターに滑らせた。
「例の女がまた現れたら、かならずおれのケータイに、電話するんだ。忘れるんじゃないぞ」
「はいはい、忘れずに連絡しますよ」
 調子のよいその返事に、連絡してくる気がないと分かって、グラスを投げつけたくなった。
 それをぐっとこらえ、そのグラスを指ではじく。
「おれたちは、何も注文しなかったからな」
 木下はすかさず、斉木の方に目玉を動かした。
「でもこちらさんが、喉が渇いたとおっしゃったんで」
 斉木が、眉をぴくりとさせ、早口で言い返す。
「おれが、喉が渇いたと言ったときは、アードベッグを出せという意味だ。こんな、まずい水が飲めるか」
 木下が何も言わないうちに、梢田は斉木の肘をつかんで、店から引っ張り出した。
 階段をおりながら聞く。
「アードベッグって、なんだ」
「焼酎しか飲まんやつには、用のない酒だ」
 外に出ると、梢田は念のため建物の横手に回り、細い通路を奥へはいった。
 木下が言ったとおり、階段の上のくぐり戸は何かでふさがれ、あかなくなっていた。
 署へ向かいながら、斉木が言う。
「おまえ、店の増築や改装に許可がいることを、よく覚えてたじゃないか」
「あたりまえだ。保安担当の常識だからな」
「けっこう。この調子だと、今度の巡査部長の昇任試験は、合格間違いなしだな」
「あんたが、じゃまさえしなければな」
 実のところ、増改築のくだりは二、三日前に試験に備えて、久しぶりに復習した風営法で、確認したばかりだった。

プロフィール

逢坂 剛(おうさか・ごう) 1943年東京生まれ。80年「暗殺者グラナダに死す」で第19回オール讀物推理小説新人賞を受賞。86年に刊行した『カディスの赤い星』で第96回直木賞、第40回日本推理作家協会賞、第5回日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2014年、第17回日本ミステリー文学大賞を受賞。15年『平蔵狩り』で第49回吉川英治文学賞を受賞。「百舌」シリーズ、「御茶ノ水署」シリーズほか著書多数。

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