よみもの・連載

御茶ノ水署シリーズ

影のない女(後編)

逢坂 剛Gou Ousaka

                  7

 翌日の夜。
 梢田威は、宿直当番の斉木斉に無理じいされ、賭け将棋の相手を務めるはめになった。手当なしの、時間外勤務のようなものだから、せめて勝たなければやっていられない。
 賭け金は一局あたり千円で、おおむね勝ったり負けたりの、好敵手同士だ。ただし、盤面から気をそらすと、斉木がこちらの目を盗んで、駒の位置を変える恐れがある。したがって、気が抜けない。
 帰宅する五本松小百合と一緒に、三人で御茶ノ水駅前の中華料理店へ、晩飯を食いに出る。
 食事を終えたあと、梢田と斉木はすぐに署にもどり、一階の宿直室で盤面に向かった。
 縁台将棋にしては珍しく、好手の応酬が相次ぐ白兵戦になる。梢田も斉木も、ひたいを突き合わせて、互いに長考に及んだ。
 ようやく、梢田は1三香と打って、斉木の玉将を2一へ追い落とした。持ち駒はなくなったが、3一の角と5一の飛車が、にらみをきかせている。詰みがありそうだ。
 4二角成りとして、空き王手をかけるか。
 香車を1一に成り捨て、それから1三角成りとするか。すると相手は、3一に合駒をしてくるだろう。桂馬か、香車か。
 そこまで考えたとき、突然ワイシャツの胸ポケットで、着信音が鳴り出した。
「くそ」
 ののしりながら、携帯電話を引っ張り出して、通話ボタンを押す。盤面に目をもどしながら、返事をした。
「もしもし、梢田だ」
「きのうはどうも。木下ですが」
「木下。どちらの木下さん」
「〈ブライトン〉の木下です」
 梢田は、あわてて背筋を伸ばした。
「おう、あんたか。なんの用だ」
「なんの用だ、はないでしょう。電話しろって、言ったじゃないですか」
 それで思い出した。
「そ、そうか。例の女が、現れたのか」
 前夜の対応から、木下がまさかほんとうに連絡してくる、とは思わなかった。
「そうです。あたしは今、トイレからかけてるんですがね」
「よし。ちょ、ちょっと待て。何をしやがる」
 梢田は、携帯電話を耳からどかして、斉木をさえぎろうとした。
 しかし時すでに遅く、斉木は盤上の駒をぐしゃぐしゃに、崩してしまった。
 にやにやしながら言う。
「将棋をやってる場合か。すぐに〈ブライトン〉に行くんだ」
 梢田はぷりぷりしながら、携帯電話を耳に当て直した。
「おれたちが行くまで、女を引き留めといてくれ。少なくとも、あと三十分はな」
「分かりました。なんでしたら、外で見張っててください。女が出るときは、店の明かりを一秒だけ消して、合図しますから」
 それを聞くや、梢田はすばやく通話を切り、斉木に食ってかかった。
「汚ないぞ。あと三手か四手で、詰んでたんだ。分かってたろうが」

プロフィール

逢坂 剛(おうさか・ごう) 1943年東京生まれ。80年「暗殺者グラナダに死す」で第19回オール讀物推理小説新人賞を受賞。86年に刊行した『カディスの赤い星』で第96回直木賞、第40回日本推理作家協会賞、第5回日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2014年、第17回日本ミステリー文学大賞を受賞。15年『平蔵狩り』で第49回吉川英治文学賞を受賞。「百舌」シリーズ、「御茶ノ水署」シリーズほか著書多数。

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