よみもの・連載

御茶ノ水署シリーズ

影のない女(後編)

逢坂 剛Gou Ousaka

「角が成り返るのは分かっていたが、どこへ成り返ってもおれは3一に、香車で合駒をする。おまえは持ち駒がないから、そこまででおしまいだ」
 どうでも、負けを認めようとしない斉木に、梢田は指を突きつけた。
「3一じゃなくて、いきなり玉頭の2二に成り返る、という手もあった。それを検討しようと」
 みなまで言わせず、斉木は椅子にすわったまま背伸びをした。
「ま、引き分けがいいとこだな。それより木下が、せっかく電話をくれたんだ。さっさと行ってこい」
 思わず、顔を見直す。
「行ってこいって、あんたも行くんじゃないのか」
 斉木はそっくり返ったまま、首の後ろで手を組んだ。
「おまえに任せるよ」
「将棋に負けたからって、そりゃないだろう」
 苦情を言うと、斉木は大あくびをした。
「知ってのとおり、おれは宿直だ。大事件が起きたら、おれが引き受ける。おまえは、その女と酒でも飲んでこい」
 梢田は、頭にきて席を立ち、コートを着込んだ。
「どっちにしても、今のはおれの勝ちだ。あした、千円払ってもらうからな」
 そのまま、宿直室を飛び出す。
 御茶ノ水署から猿楽通りまで、速足で歩いてもたっぷり十分はかかる。
 駅前通りから、そのまま明大通りの信号を越え、とちの木通りを目指すことにした。男坂(おとこざか)をくだって、猿楽通りを少し左へ歩けば、〈ブライトン〉だ。
 棋譜が頭によみがえる。
 玉頭に、角を成り返って捨てれば、1一飛車成りで詰んでいたのではないか。いや、確かに詰んでいた。
 ののしりながら、小走りを交えて急ぎ足で歩く。午後八時過ぎで、駅前はまだ人通りが多い。
 それにしても、例の女がまたまた、しかもこれほど間なしに、姿を現すとは思わなかった。よほど能天気なのか、それともなめてかかっているのか、どちらにせよ業腹な女だ。
 かえで通りを直進し、左に折れてとちの木通りにはいると、めっきり人通りが少なくなった。
 あまり急いだので、男坂をおり始めたときはさすがに足が震え、危うく階段を踏みはずすところだった。

プロフィール

逢坂 剛(おうさか・ごう) 1943年東京生まれ。80年「暗殺者グラナダに死す」で第19回オール讀物推理小説新人賞を受賞。86年に刊行した『カディスの赤い星』で第96回直木賞、第40回日本推理作家協会賞、第5回日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2014年、第17回日本ミステリー文学大賞を受賞。15年『平蔵狩り』で第49回吉川英治文学賞を受賞。「百舌」シリーズ、「御茶ノ水署」シリーズほか著書多数。

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