影のない女(後編)
逢坂 剛Gou Ousaka
猿楽通りを左に曲がり、〈ブライトン〉に向かう。
このあたりに来ると、もう人通りがほとんど途絶えてしまった。ときどき、車が行き来するだけだ。
足を止めて、〈ブライトン〉を斜めに見渡せる、十字路の角の建物に身を隠す。あたりに目を配ったが、あきれるほど人影がない。
〈ブライトン〉がはいった、小さな建物の二階の壁から、ほの暗い明かりがぼんやりと三つ、漏れている。
そういえば〈ブライトン〉の、カウンター席の背後の梁(はり)の上に、申し訳程度に小窓が二つか三つ、切られていたのを思い出した。確か、濃いめの色つきガラスの窓で、派手な壁紙と紛れたせいか、ほとんど忘れていたのだ。
木下は、女が出るときは一秒だけ消灯する、と言った。
しかし、たった一秒ではまばたきしたときに、見落とす恐れがある。なんとなく、不安になった。
いや、合図を当てにするまでもない。このあいだのいでたちなら、見過ごす心配はまずないだろう。
見張るあいだにも、通りの左右に目を配る。
またぞろ、高梨(たかなし)一郎が姿を現すのではないか、と不安になった。実際、ありえないことではない、という気がする。
しかし高梨どころか、人っ子一人見当たらなかった。
九時まであと七分というとき、例の小窓の明かりが消えた。一瞬まばたきと重なり、あわてて目をこらす。
明かりはもはや、点滅しなかった。
すると、一分もしないうちに木の扉が開いて、人影が一つ出て来た。体つきからして、女だと分かる。
しかし、その女は一昨夜とはまるで異なる、カジュアルな格好をしていた。
金茶色に染めて、たてがみのように盛り上げた、もじゃもじゃの髪。
体にぴったりした、黒の革ジャン。
細身の、洗いざらしのジーンズ。
真っ白なスニーカー。
化粧は、夜目にもはっきり分かるほど、濃い。
真っ青なマスカラに、真紅の口紅が街灯の下に、浮き上がる。
梢田は、かすかに記憶をくすぐられる気がしたが、まさかという思いでそれを打ち消した。
どちらにせよ、通りを挟んで遠目に見る限り、一昨夜と同じ女かどうかは、分からなかった。この分では、すぐそばで顔を突き合わせても、見分けられないかもしれない。
とはいえ、いちばん近くにいた木下太郎が、前々日と同じ女だと判断して、連絡をよこしたのだ。信じるほかはない。
もし人違いなら、あとでとっちめてやる。
女が、前回と同じ方向に歩きだすのを確かめ、反対側の歩道に沿ってあとを追った。
今夜もやはり、女坂(おんなざか)へ向かうのか。そして何者かと、もう一度クスリらしきものを、やり取りするのか。
だとすれば、またぞろ高梨がその近辺にひそんで、つごうよく飛び出して来る、という可能性もある。なんとなく、いやな予感がした。